Message PHP
[Homepage] [Script Top] [Administrator]

2018-11-02 の記事 - 2018-11-02
なぜ起きた?弁護士への大量懲戒請求

これ。前半はそれなりによくできていると言っていいでしょう。

どこからどう見ても異常なことばかり主張しており、弁護士らは外患誘致で死刑に相当するとまで言う狂気のヘイトブログ。それを信じ込み、書いてある通りに懲戒請求をかける人々。ところが、反撃を受けたことで反省している者はいるものの、どいつもこいつも差別を反省している様子は全くない。そして当の余命は「個人の判断でやってるんでしょ」「責任を感じるわけない」と日本しぐさ。
懲戒請求をした者にせよ、あおった者にせよ、どちらも異常者としか言いようがない連中であり、これをありのまま報道すればそのまま強力な問題提起となります。どうして安倍政権に対してそれをしないのかは知りませんが
そういう意味で、これがマスメディアの報道、それもバラエティではなくドキュメンタリーで流れた意義は大きいといえるでしょう。

ただし、問題は後半です。なぜここからこのような結論に持っていくのかが理解できません。
まずはまたしてもエコーチェンバー論を唱える辻大介氏。「両極側」とのことですが、本件は民族浄化を扇動するような狂気のヘイトブログを信じ込んだ差別主義者が、懲戒請求とはいかなるものであるかをまるで調べもせず、自らの差別意識を満たすために懲戒請求を行った、というものであり、この話に「両」極など出る幕はありません。どうしてここで「両」極、すなわちこんな狂気の行いをするような者の「対」となる存在が必要なのでしょうか。
この分では、いわゆる両極のみならず、穏健派なるものも極の一つであり、それもまたエコーチェンバーによって自説を強化する存在であるという事実には、未だにたどり着けていない模様。本件の場合、余命ブログは例えば民族浄化を扇動していて、反差別側は当然民族浄化など否定していますが、ここでどちらの極にも属さないようにすると、「余命ブログも問題だけど、民族浄化を否定するのもおかしいんじゃないの?」という主張にならざるを得ず、これは非常に極端な主張です。そして事実、「自称中立」「冷笑系」といった連中は日本のインターネットの一大勢力となっています。
社会の分断も何も、社会の分断を目的とした思想が差別思想なわけで、本件については単に「差別はダメだ」「民族浄化は否定されるべき」で済む話でしかないのです。

なお、動画サイトなどに関しては私も問題であると考えます。
といっても、好みに応じた動画を出してくるシステム自体が問題であるとは考えません。私はYouTubeでは中国語の動画を用いて勉強をすることが多く、したがって同様の動画ばかりをおすすめしてくるのは非常に助かります。一方、日本語の動画は見ませんし、どうしても見る時には別のブラウザを使って汚染を避けるようにしています。
が、しかし。最近は大量通報のおかげでかなり快適になりましたが、少し前までは「DHCシアター」やら文字ヘイトやらのヘイト動画を次々におすすめしてきていたというのが偽らざる事実です。中国語の動画を積極的に見て、ヘイト動画どころか日本語の動画すら一切見ない者に対し、(おそらく日本のサーバーからの接続というだけの理由で)ヘイト動画を次々にすすめてくるのはどう考えても興味として正反対ですし、エコーチェンバーも何もあったものではありません。
ちなみにTwitterでは、やはり最近は少しマシになったようですが、以前まではトップページにレイシストのヘイトツイートがバンバン載っていました。サイトの顔にこんなものを載せれば、その影響力は極めて甚大なものとなるのは言うまでもありませんし、ここからたどっていけば自然にヘイトアカウントやヘイトツイートばかりを目にすることになります。
結局、エコーチェンバーというよりは、単に差別に引きずり込まれやすい状況が確立されてしまっていたわけです。こうして差別に引きずり込まれた人々の末路はといえば、懲戒請求への反撃を受けての大狂乱、家族が離れていくといった悲劇的なもの。特に年配者が染まった場合、正常な人格に戻れる可能性は低くなります。しかも、これらは本人にとってはまだしも自業自得ですが、差別される方にしてみればたまったものではありません。

私はこの状況をかねてから憂慮していますし、これを解消するためには実は(ここで言うところの)エコーチェンバー論を打破する必要があると考えています。すなわち、「差別も反差別も極端である」ではなく、「差別はダメ」といった普遍的な公正性を尊重し、とにもかくにも被差別者がぶん殴られている状況を止める立場にまず立たなくてはなりません。
その上で、外国に親和的な者に対してヘイト動画をすすめるようなお粗末なものとは逆、つまりヘイト動画をよく見る者に対して差別を否定したりデマを暴く動画をすすめることで、差別に染まる事態を減らすべきであると考えます。無論、「差別はダメ」なのですから、反差別動画を見る人にヘイト動画をすすめる必要はありません。
Twitterでは自殺対策などとして、自殺予告らしきツイートに対しては相談窓口の紹介などがなされているそうですが、差別とはそれどころか他人への加害行為ですから、少なくともそれ以上の対策がなされるのが当然です。
これはサービス提供者の社会的責任と言ってもいいでしょう。

西田亮介氏の「多様」に至ってはますます頭が痛いと言わざるを得ません。

>公共性を共有することも難しくなる。ある人が公共だと思うものが、他の人にはそうではなく見える。人の思考や考え方が極限まで多様になっていくと、他人に対して想像力を向けることが難しくなっていく。

「多様」だからこういうことになるのではなく、多様性を否定する連中が起こしたのがこの騒動でしょうが。どうしてこの大前提が抜け落ちているのか。
民族浄化を扇動したり、差別的取り扱いの解消を求める弁護士を外患誘致で処刑しろなどというのは、それこそ多様性の否定の究極形です。自分とは異なるある属性の集団、またはその集団への差別を否定する者について、最悪の物理的な人権侵害行為を用いて対処しろと言っているのですから。そして、この問題はそんなブログを信じる連中によって起こされているのです。
多様性を尊重するとはすなわち、多様性を毀損するような言動を否定することです。これは「多様性」や「寛容主義」を考える上での大原則。したがって、この手の連中の差別的言動を否定することが多様性に沿う行動に他なりません。

ある人が公共だと思うものが、他の人にはそうではなく見える」の言い分はある意味で象徴的です。確かに、その点で意見が分かれることはあるでしょうが、何をどう間違っても民族浄化の扇動なんぞが公共であるわけがない。朝鮮学校の差別的取り扱いに反対する弁護士について、外患誘致で死刑にしろなどというのも同様。
「差別はダメ」という極めて普遍的な公正性を尊重し、多様性を尊重すれば、このような珍妙な疑問が生まれる余地はそもそもないのです。