Message PHP
[Homepage] [Script Top] [Administrator]

2018-09-28 の記事 - 2018-09-28
「新潮45」休刊のお知らせ

なぜ「差別をしたことをお詫びします」と言えないのですか?このような事態を招いたことについてお詫び」するそうですが、このような事態さえ招かなければ差別をしてもいいと考えているのでしょうか。謝罪する相手も、まず第一には新潮社が差別でぶん殴った被差別当事者であるべきです。

>しかしここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。

言い訳として無理があります。
確かに、人間誰しも間違いはあるもの。杉田文章を記載してしまったことについては、それこそ新潮45の10月号の誌面を使用し、徹底的な社内調査の結果と処分の報告、杉田文章への反論やファクトチェックなどを行い、二度と差別をしないと会社として宣言し、反差別特集を組むくらいのことはしていれば、少なくともここまでの事態は避けられたでしょうし、逆に信頼を得ていたかもしれません。
実際、メディア・文筆家・被差別当事者・一般の人々などから、あの文章がどれほど劣悪で不当なものであるか、あらゆる切り口から理を尽くした反論がなされており、新潮にはこれが過ちであることを認識する機会がいくらでも与えられていました。
ところが、新潮45は再び被差別当事者をぶん殴ることを選択します。一度目の時点で言うならまだしも、それが猛批判されている状況でわざわざ二度目をやっておいて「企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」とは何事ですか。企画を厳密に吟味し、十分な原稿チェックの末に行われたのがあの記事であると考えるのが妥当です。

結局は休刊となりましたが、「ああ、そうですか」の一言。最も重要なことがことごとくなされていないためです。
「差別をしたことに対する」謝罪、徹底した原因究明とその公表、厳格な処分と再発防止策の策定、二度と差別はしないとの誓約がなされるならば、新潮45を休刊するか否かはさしたる問題とはなりません。たとえ新潮45が存続されたとしても、そこに差別が掲載されることはなくなるためです。
しかし、新潮社はそれらを全く行いませんでした。原因はほとんど解明されず、差別を生む土壌は放置され、意味のある処分は行われず、お詫び文に至っては「差別」の「さ」の字も出てこない始末。全く何も変わっていない以上、新潮45が休刊となったところで、新潮社は別の書籍をいくらでも差別に用いることができます
また、新潮45自体も部数が低迷していたわけですから、もともとがお荷物であったところに、今回の件で著しくイメージが悪化して厄介者でしかなくなった新潮45を切るというのは大して重い判断ではありません。会社の中でも大きな利益を生み出している重要商品を切るならまだしも、これでは区切りとしての意味すら持ちません。
したがって、この休刊がそれほど重要であるとみなすことはできません。

無論、休刊されたことが良いか悪いかと問われれば、私は良いと答えます。
新潮社は言論を扱う老舗の大手でありながら、その言論を人々の魂を殺戮するための兵器に転用し、それを実際に用いて人々を蹂躙し、それが問題になっている状況下で平然と二度目の殺傷も行い、しかも差別を謝罪することは一切ないなど、極めて攻撃的で危険かつ全く歯止めの効かない存在であることが明らかになりました。
そのような者の手から、「新潮45」という二度にわたって人々の魂を殺傷した実績のある凶器を弾き落としたことは、たとえ新潮社が凶器に転用可能な道具を他にいくらでも所有しているとしても、十分に意味があることです。

ところで、新潮45はどうすべきであったか、そもそもの発端である杉田氏はどうすべきであったかについては、人々の間でもいくらか見解が分かれているようです。休刊の決定に関しても、評価する声もあれば、残念とする声も聞かれます。
なお、休刊は残念とする声については、私も「新潮が自ら、調査結果を公表し反省を述べ、差別をしない誓いをする場を放棄した」という意味に限って同意見です。もっとも、今の新潮がそれをする可能性は万に一つもないため、結果的には休刊の方がマシという結論に至らざるを得ません。
今回ここで私が反論しておきたいのは、「せっかくの誌面の場なのだから、擁護・否定両方の意見を取り上げて議論の場を提供すればよかった」「新潮45は別の人間に反論させるのではなく、杉田氏に反論をさせるべきだった」という2つの意見についてです。

誌面で「擁護・否定両方の意見を取り上げる」ことは明確に間違っています。
議論のある言論について、これを行うことは妥当な場合も多くあります。しかし、差別は言論ではなく単なる暴力です。
世の中の過半数の人は異性愛者に生まれつきますが、それはたまたまでしかありません。マジョリティに生まれついた人でも、同性愛者に生まれていた可能性、トランスであった可能性、あるいは障碍を持って生まれていた可能性、在日韓国・朝鮮人など今の日本で差別の対象となっている属性に生まれていた可能性があります。
そして、そうした属性に生まれついた人々に対して、その属性に生まれついたことを理由として行われる、魂を殺傷し、その生存権や平穏な生活を脅かし、人間としての尊厳を踏みにじる暴力行為について、「それは行われるのが妥当か、行われるべきではないのか、両方の立場を取り上げて議論しましょう」などというのは明確な差別への加担行為であり、明らかに間違っています。
書籍がこんなものを自由な言論として載せるのであれば、そんなものは匿名掲示板の片隅の差別落書きを記載するのと何一つ変わるところはありません。何のための書籍で、何のためのブランドで、何のための校閲でしょうか。そして、出版社のブランドを掲げて書店にずらりと並べられた書籍は、わざわざ見に行かないと見られない匿名掲示板の差別落書きの比ではないほど多くの人々の目に触れ、その尊厳を踏みにじり、強烈なダメージを与え、また多くの人々の差別意識を扇動します。
これは書店にしてもそうですが、「どんな言論も分け隔てなく扱う」といったような言葉は耳触りこそ良いものの、これは「理不尽な暴力も非暴力と同列に扱う」「出版と落書きの差、つまり出版社や書店が持つべき役割を放棄する」と言っているのと同じです。正当な言論と、言論の名を騙る暴力行為は、区別されなくてはなりません。
差別に賛否の議論などあり得ません。これは大前提です。杉田文章はもうここでいちいち説明する必要がないほど多くの人々によって語りつくされていますが、偏見と事実誤認と全体主義的思想と差別意識に基づく明確な差別でしかありません。その賛否を誌面で議論することなど、当然あり得ません。

「別の人間ではなく杉田氏に反論をさせる」のも誤りです。これ以上杉田氏の文章を記載してよいのは、氏が以前の自らの差別について謝罪・撤回の意思を表明する文章を書いた場合のみで、反論を記載するなどもってのほか。それはすなわち、再び差別を垂れ流す結果にしかなりません。
「批判を浴びた杉田氏に反論の機会がないのはおかしい」との声もあるかもしれませんが、そもそも最初の文章が載ったことがおかしいのです。本来なら到底記載できないような劣悪なヘイト文章でも、最初に載せてさえしまえば、次以降も反論の体さえ取れば載せていい、というようなことは到底認められません。また、杉田氏は公人ですから新潮45でしか物が言えないわけではなく、それどころか例の差別についての問いから逃げ回っておきながら、好き勝手に講演会などをやっています。もともと力も発言力もある公人と大手出版社が被差別当事者をいきなりぶん殴り、彼らを萎縮させることの方が、発言の機会を奪う意味では何倍も深刻です。
そして、もし氏に反論など書かせようものならどうなっていたか。それは、杉田氏の反論こそ記載されたわけではないものの、新潮45が批判への反撃として行った反論特集の惨状が物語っています。
どの反論もそれなりに問題のあるものであったことが指摘されていますが、中でも小川氏の主張たるや、今回見識のなさを著しく露呈することになった新潮社をもってしてもかばいようがないほど劣悪なものでした。偏見だとか、稚拙だとか、低レベルだとかいう領域はとうに超え、もう狂気の沙汰と表現した方が適切ではないかと考えるほどです。
杉田氏の文章は、その表現の表層だけを見れば、いくらなんでも小川氏ほど狂気に満ちたものとはなっていません。しかしながら、LGBTに対する著しい偏見・差別・事実誤認に加え、ナチスや相模原事件と極めて親和性の高い「生産性」論を展開して全方位的な差別の火種を作るなど、杉田氏の主張がその中身において小川氏よりひどくないなどとは到底言えないと私は考えています。なにしろ、そもそもこのような事態に至るほどまでの大騒乱をまず巻き起こしたのが、他ならぬ杉田氏なのですから。

実は差別主義者たちも、その多くは理由もなく差別をしているのではありません。彼らなりの理由があって差別をしているのです。ただしその理由たるや、小川氏が本音を包み隠さず垂れ流してくれたおかげで分かるように、極めて理不尽で見るに堪えないようなものばかり。これは小川氏が特別ひどいというより、小川氏があまりに本音を直接的に伝えるような言葉選びをしただけで、差別主義者が差別をする理由などほとんどこれと五十歩百歩です。正当な差別というものが原理上この世に存在し得ない以上、当然ではありますが。
杉田氏に反論をさせ、理由を語らせようものならどうなっていたか。小川氏のような言葉選びをしないだけで、内容としてはどちらがひどいとも言えないような地獄絵図が繰り広げられたであろうことは想像に難くありません
そしてそれは、今回の新潮45の反論特集がそうであったのと同様に、被差別当事者の魂を殺し、人間としての尊厳を徹底的に踏みにじることを意味します。そのようなことは決して許されないのです。