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2018-09-15 の記事 - 2018-09-15
ネットの「デマ」、名誉毀損で刑事告訴へ 翁長氏後継・玉城デニー氏

素晴らしいことです。
で、本土の立憲野党は?いつまで沖縄におんぶにだっこを続けるのですか?沖縄が貶められ、ターゲットにされ、それに抗おうとする人に対するデマが垂れ流されるのは、すべて本土の都合です。
本土の立憲野党が日ごろデマに厳しく対処しないから、沖縄でも悪質なデマが流されることになるのです。反撃がどれほど効果的かは、不当懲戒請求への反撃が示してくれている通りです。本土の立憲野党こそ、普段からデマに対して徹底的な法的措置で対抗しなければなりません。

台湾の従軍慰安婦像に蹴りを入れた藤井実彦とは何者なのか

海外に出向けば恥をさらす。日本の地位は貶める。二度と海外に立ち入るな、日本からも出ていけ、国賊が

日本のレイシスト連中がどこまで腐りきっているかをよく表している、徹底的にどうしようもない愚挙です。これにて台湾の心象は極限まで悪化し、慰安婦像の設置を妥当なものとみなしたことでしょう。かつての「The Fact」やスパムメール爆撃と同じことをまたしても繰り返したわけです。
この国賊と違い、像に対して何ら憎悪を持たない私としては設置が固定化しても全く構いませんが、像を通してその向こうにいる人間の尊厳を足蹴にしたこと、それによって日本の品位を極限まで棄損したことなどを決して許すことはできません。
ただ、これが恐ろしいのは、日本国内ではこの手の主張は全く珍しいものではなく(例えば作家の筒井氏は極めて下品な表現で像を貶めている)、それどころか生身の人間に対する攻撃すら平然となされていて、今回の件にしても日本国内での内輪受けを狙ったものであろうということ。今回は海外の目に触れ、国内と違ってまともな感覚であるがゆえに大問題になりましたが、これが海外の目に触れなかったり、国内で完結している場合には、レイシスト連中の拍手喝采で終わったことでしょう。
この国賊の行動は、単に日本国内に存在する願望を実際に形にしただけと言っても過言ではなく、この問題はそのまま日本の異常性を写す鏡となっているのです。

なお私は、慰安婦像は設置した方がよいという立場です。理由はこの国賊を見ての通り。日本が本当に過去と向き合うことができているのなら、レイシスト歴史修正主義政党が与党となり、歴史どころか少し前のことすら修正するレイシスト首相が大手を振るような異常事態にはなりませんし、地方政治でも東京の石原〜小池、大阪の維新といった恐ろしいことにはなりません。
今回の国賊及び国賊の同類が日本にはびこっている限り、こういったモニュメントの存在価値が増すことはあっても減ることはありませんし、こうした国賊の存在とその異常性を海外に知らしめる点でも大きな効果を上げています。単なる像でありながら、ここまで明瞭に深刻な社会問題の存在をあぶり出し、世界に問題提起ができるような像が他にあるでしょうか。
もし像が必要なくなる時が来るとすれば、それは日本人がこうした国賊及び国賊の同類と戦って勝利し、ヘイト政治家を政治の場から締め出し、自分たちの意思でレイシズムや歴史修正を否定し、歴史と向き合った時でしょう。

最新調査で判明、インターネットはこうして社会を「分断」する

安田浩一氏の記事を見たついでに読んだ記事ですが、何ですかこれは。
レイシストがタコツボの中に入ると極端な方向に走るのは確かで、それゆえに街角で「朝鮮人を皆殺しにしろ」だのと吐き散らしたり、女子中学生が「鶴橋大虐殺を起こしますよ」だのと背筋が凍るようなことを叫んだり、慰安婦像を足蹴にして国際問題になったりするわけですが、なぜここで「アンチ排外主義」までが極端化だの、果ては敵味方感情だの分断だのという奇妙な話が出てくるのか。
実はこの記事、1つ重要なピースが抜けています。怪談話などで、登場人物が無事では済まなかった場合の定番のツッコミとして「あなたは一体どうしてその話を知っているのか」というものがありますが、本件については「では、その両極の先鋭化を俯瞰しているらしいあなたは、一体どこに立って眺めているのか」と問うことができるでしょう。
というのは、いわゆる穏健派、中立や中庸を気取る意見こそが実際には極端であることは珍しくなく、この重要な点を抜きにして極端や分断を語ることはできないためです。

例えば、レイシストは街角で平然と「○○人を皆殺しにしろ」と主張しています。一方、反差別者は「そんなことは許されない」と主張しています。では、そのどちらの極でもない、すなわちここで言う「極端」には属さない「穏健」な立ち位置とはどこなのでしょうか。
単純に真ん中に立つとすれば、「○○人は半分殺せ」です。両方ともおかしいというのなら、つまり「○○人を皆殺しにするのはおかしいが、○○人を殺すのを許さないのもおかしい」ということです。無関心ならば「○○人が皆殺しにされようがされまいが、どちらでも構わない」。自分や近親者は殺されても構わないと主張することはないはずで、これはすなわち○○人の生命は無価値とみなしていることを意味します。では果たして「極端」でない人、「穏健」な人は一体どこに立つ気なのか。
実際のところ、この場合に極端でない意見、穏健な意見は反差別だけです。たとえ反差別に加わらない範囲でギリギリまで反差別側に寄り、最小値を用いて「○○人を○○人という理由で1人殺せ」と主張したとしても、これは十分に極端な意見です。「殺すな」が極端ではない唯一の解なのです。

むしろ日本社会は、いわゆる「穏健」、中間や中庸的な極端に走ることに対して最も無防備であり、それこそを一番に警戒すべきでしょう。差別や人権無視、不正のような明らかにおかしい主張や行為について、「正しい」「間違っている」「どちらともいえない」の中から「間違っている」を選べず、中庸を取ろうとする極端、と言えばイメージしやすいでしょうか。そしてそれは、理不尽な差別や人権無視による被害を受ける人々と、中庸に走ろうとして間違いを間違いとさえ言えない「穏健」派の間の地点で、社会が分断されることを意味します。
また、日本には中間を大人の対応とみなす珍妙な価値観があります。しかし、差別や人権無視のようなおかしい問題について、なんでもかんでも中立を気取ったり、両論併記をしようとすることを大人の対応とは言いません。それらをきっちり叱り、否定し、対処することか大人の対応です。
そして、この幽霊のようないわゆる穏健が、そのタコツボの中で意見を強化してしまうと時に恐ろしい結果を招きます。関東大震災時、差別デマに踊らされて動乱に加わった人の中には、いわゆる「普通の人」が大勢いました。当然、虐殺を防いだり被害者をかくまったりした人もまた存在し、勇気ある逸話も残されていますが、この状況でそうまでして虐殺に立ち向かった人々は「極端」であるわけです。
この記事のような角度から極端を語りたいのであれば、いわゆる穏健を極端の外の存在とするのではなく、それもまた極端の一形態であると位置づけることが最低限必要です。