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2018-08-18 の記事 - 2018-08-18
自称プラントハンターによる「星の王子さま バオバブの苗木」、大炎上により販売中止に

この件。プラントハンターを名乗る炎上芸人による「法には触れない」を悪用したモラルハザードが可視化された例でしたが、結局取り扱いは取りやめとなったようです。

通常、法律は社会の何もかもを取り締まるようにはできていません。それをやってしまうと自由が損なわれますし、社会にとって良いことはありません。ただ、「法にはいちいち書いていないが、すべきでないこと」は当然ながら存在します。
例えば、とあるファンドが法の抜け道をついて株を買い進め、グリーンメールを仕掛ける。ブログや動画でヘイトデマを垂れ流し、それを商売とする。ある出版社が著者に白人を起用して「ハク」をつけた上で、ヘイト本を売りさばく。法的に問題ないと称して男性の集団が女性専用車両に乗り込む嫌がらせをし、時には注意してきた女性を晒し上げ、それを動画にして視聴数を稼ぐ。著作権が切れた有名な物語を捻じ曲げて用い、炎上商法によって注目を集め、ただの苗木に物語代を乗せて高く売る。いずれも「(直ちには)法には触れない」案件です。
このようなモラルハザードが平然と横行すれば、それを法律や条例、あるいは自治体や企業・共同体の規則などで規制する必要が出てくる場合もあります。本来であれば良識で避けることができるのに、一部の不届き者がふざけたことをやるがためにシステム的に縛らざるを得なくなれば、それは社会にとっての損失です。といっても、日本では政府が完全にモラルハザードを起こしているので、それ以前の問題かもしれませんが。
したがって、法的に問題はなくとも、良識に反していたり、他人に対して不当な苦痛を与えるなど、公正性に反する場合には、市民の言論活動などによって止めることが必要になる場合もあります。分かりやすい成功例としては、レイシストへのカウンターやヘイト動画通報などを挙げることができるでしょう。いずれも根絶には至らずとも、その規模を大きく減じることには成功しています。

では今回のような炎上商法が行われた場合、どのように対抗するのが効果的なのか。私が知る限り、最も良いのは徹底的に炎上させて燃やし尽くしてしまうことです。
長谷川豊氏は「透析患者は殺せ」で炎上を仕掛けましたが、燃やし尽くされてレギュラー番組をすべて失い、しかも維新から出馬するも強い反発を呼ぶばかりで、結局落選。杉田水脈氏は安倍政権の本音担当として差別を垂れ流し、その異常思想によって名を売りにいった結果、徹底的に燃やされて自民党ですら形ばかりながら「指導」をすることになった上、「生産性」をめぐる余波は今なお続いています。
このプラントハンターを自称する炎上芸人はかつてクリスマスツリーでやらかしましたが、今回の件でももともと炎上必至のやり方に加え、以前の大炎上で作られたコークスに今回の炎が引火して高温化した側面もあり、徹底的に燃やされた結果として販売は中止。氏は「危険物件」として広く認知されるに至ったことでしょう。

NEWSの窓:メディア 差別と闘う 「どっちもどっち」は無し

おっしゃる通り。ただ、これを書いた人は分かっておられるとしても、分かっていない人間がこの新聞社内も含めてゴロゴロいるようですが

どっちもどっち論。マスメディア上で多く見られるのは、無理やりな両論併記であったり、「とされる」「とも取られかねない」といった「そう取る奴が悪い」と言わんばかりの表現であったり。また、どっちもどっち論を誘発する不正確な表現として「ヘイトスピーチ(憎悪表現)」も散々使用されてきました。これらがどれほど著しく公正性を毀損してきたことでしょうか。
例えば、最近でも杉田氏のLGBTヘイト、東京医科大学の女性差別など、日本で差別を見ない日はありませんが、これらはいずれもただの差別です。「差別と取られかねない」などではなく「差別」です。理由をつけようが何しようが、単なる差別です。そして、杉田発言についてしっかり許されないと明記しているのが、こちらは読売新聞の子ども用コーナーという笑えなさ。毎日といい読売といい、どうして子どもコーナーでは正しい説明が書けるのに、大人が読む部分では全く話にならないのか。
子どもに「それなら、許されない発言をしているような人や政党について、なぜメディアはまともに批判し戦おうとしないのか」と問われて、答えられるのでしょうか。

ここに「○○人を皆殺しにしろ」と主張する者がいます。そして、それに対して「そんなの許されるか」と反対する者がいます。これがどっちもどっちであるとしたら、ではその中間点はどこでしょうか。両論併記をするとしたら、その落としどころはどこでしょうか。「○○人を皆殺し」と「それは許されない」の間からどの点を選んだとしても、100%留保なしの「許されない」を選ばない限り、「○○人をある程度なら殺していい」ということにならざるを得ません
差別には明確な力関係の差が存在します。力関係の差がなければ差別にはなり得ず、差別問題を考える上では常にこれを念頭に置かなければなりません。
力関係が違う以上、差別の構図を放っておけば被差別者が一方的に蹂躙されます。ひ弱な子どもと老人が屈強なヤクザの大軍に絡まれ、必死で抵抗している、という場面があるとして、これを「ケンカはどっちもどっちだ」と放置しておけば弱い側が容易に蹂躙されるだけです。おまけに、この場合のヤクザとはすなわちマジョリティの力を背景にした存在であるわけですから、自分がマジョリティである限りは自分もヤクザに力を貸している側となります。
つまり、「止める」以外の選択肢はすべてヤクザに味方することと同義です。自分も差別に加わるか、どっちもどっち論などで中立を気取るかの違いは、自分もヤクザに手を貸して蹂躙を手伝うか、自分は手を下さずヤクザに汚れ仕事をやってもらうか、ただそれだけの差でしかありません。
さらに恐ろしいことに、マジョリティの一部はヤクザに襲われている弱い立場の人々が涙を流して耐えている間は「おお、ひどい話だ。かわいそうに」などと言ったりするくせに、彼らがもう殴られたくないからと抵抗したり身を守ろうとしたり、社会に苦境を訴えたりし始めた途端に「逆らうのか?生意気だ!でしゃばるな!」などと言い出したりします。要するに、被差別者が従順である限りは二級市民扱いくらいならしてやる、という極めて差別的な態度を取るわけです。
しかも現状で運よく特権階級側につくことができた名誉一級市民の被差別者が差別側に同調する、という地獄絵図もしばしば繰り広げられます。

こうしたものに対して、メディアは「NO」と言う責任があります。差別は差別であると述べ、差別者の攻撃と被差別者の抵抗を「どっちもどっち」にせず、不公正な両論併記は行わず、また従順であることを条件とした二級市民認定なども正しく差別と断じなければなりません。
しかし実際はどうでしょうか。立場の弱い人々を権力などの巨大な力から守るため、それに匹敵するほど大きな力を与えられてきたメディアが、権力や社会の差別と手を組み、強大な力を用いて弱い立場の人々を蹂躙する場面を、一体何度見せられたことでしょうか。新聞が強い者の味方をして弱い者を叩き、テレビで被差別者を面白おかしく蹂躙し、大手出版社さえも売れるからとヘイト本を出す絶望的な光景を、今までどれほど目にしてきたことでしょうか。それがマジョリティ側の人間から見ても最低劣悪な光景であるならば、マイノリティにとってはどれほどの恐怖や絶望でしょうか。
子どもコーナーに書かれる、すなわち子どもでも十分理解できるようなことを、大人はなぜできないのか。このような状況は恥も恥、子どもにも笑われてバカにされるほどの大恥だと考えるべきでしょう。