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2018-07-21 の記事 - 2018-07-21
小1男児が熱中症で死亡 校外学習中に「疲れた」訴え

相次ぐ学校熱中症問題。これらは直接的には厳しい気候によって引き起こされたものですが、実際には猛暑は問題が顕在化したきっかけにすぎません。
学校は事実上の治外法権であるというのが日本の常識であり、例えば街中で子どもを殴れば逮捕されるところを、学校内で教師が犯行に及べば大抵の場合は逮捕されない現実があるわけですが、これと厳しい気候条件がかみ合えば何が起こるか、容易に想像できようというものでしょう。
結果、体調不良の6歳児を炎天下に引き回して殺したり、校舎の周りを80周させるデスマーチを命じて殺そうとしたりといった大変な事態となり、さすがにこうなると学校の外に対して事実を公開せざるを得なくなり、外部から見ると異常としか言いようがない状況の一部がようやく表面化し、世間を唖然とさせることになるのです。

運動部のみんな、熱中症「無理」「もうダメだ」の勇気を

書かれていることは正しいにせよ、意味のない記事です。
なぜ学校で熱中症が起こるのか。「暑いから」ではなく「構造的な問題があるから」です。
差別やセクハラなどの問題にある程度詳しい人にとっては自明なのですが、このような場合には構造的な力関係の差が必ず背景にあり、それゆえにデスマーチの末に倒れるといった、普通に考えれば無理でダメなことが発生してしまうのです。
そしてこの場合、「被害者」側に呼び掛けることは良くて無意味、悪くて有害です。例えば差別ならマジョリティ側の問題ですから、被差別者に何かを要求してはいけませんし、セクハラなどの問題なら被害者本人が戦うことは当然自由ではあるものの、戦うことを強要する権利は誰にもありません。
また、本人が戦わなかったからといって侵害行為がより軽いとみなされることがあってもいけません。よくある「嫌ならなぜきっぱり拒絶しなかったのか?」はまさに被害者に責任を転嫁するワードでしかなく、「力関係のために拒絶できないから」に決まっています。
学校の熱中症問題もこれと同様です。記事を書いて切り込むのであれば、力関係の弱い「被害者」に「拒絶しろ」と言うのではなく、この力関係の構造にこそ切り込まなければならないのです。

今回の熱中症問題は、学校内で平然と行われている異常事態を表面化させるきっかけとなりました。
であるならば、熱中症への直接的な対策はもとより、この構造的な問題を解消していかなければ、似たような問題を今後とも何度でも繰り返すことになるでしょう。例えば根性論によるエアコン設置・稼働の否定は、別件でも根性論によるトラブルを引き起こすことが目に見えています。

「ニュース女子」で人権侵害、在日女性が「DHCテレビジョン」とジャーナリストを提訴へ

どこからどう見てもヘイトデマの塊である異常な放送をしていながら、不完全極まりない謝罪に至るまでにすらこれほど時間がかかりますか。

権力とは巨人のようなもので、その気になれば無力な個人など簡単に踏みつぶしてしまうことができます。そこでメディアには、彼らが暴走しないように監視し、万が一暴走した場合はそれを止めるため、巨人に匹敵するほどの力が与えられています。政府が沖縄や女性、朝鮮人などを踏みにじっているのに、メディアが一緒になって踏みにじるとはどういうことですか
同様に東京新聞も問題です。無論、会社の者が言論活動をすることは自由でしょうし、それが会社の方針と食い違っているからといっていちいち処分してはならないでしょう。それがデマやヘイトスピーチである場合を除いては。「東京・中日新聞論説副主幹」の肩書で箔をつけてヘイトデマの銃を乱射したのですから、責任ある企業としては厳しく対応しなければなりません。
あんなヘイトデマが何をまかり間違ってか電波に乗ってしまったのは、それ自体が驚愕すべきことですが、責任ある立場のはずのMXや東京新聞といったメディアがとことん誠実に対応しなかった事実はますます驚愕に値します。
DHCのようなヘイトデマ企業が発生してしまうのは、残念ながら完全には防ぎようがありません。その卑劣なヘイトデマを右から左に垂れ流し、まともな謝罪も対処もしないメディアの問題は極めて深刻です。

なお私は、表現の自由は公共の福祉による制限を受け、他の権利との兼ね合いの上でのみ認められるものと考えていますが、表現の自由を至上主義的に重んじるとすれば、実際にはこのようなヘイトデマこそ徹底的に非難し排除しなければなりません。
例えば、経済活動の自由が最大限尊重されるとして、「ニセ札を製造する自由」「良くて無意味、悪ければ危険物入りのニセ商品を偽って売る自由」は経済活動の自由として容認すべきでしょうか。それを問題視する人々に対して「ニセ札やニセ商品に文句があるならば、それをやめさせるのではなく、自分が正しいと考える経済活動によって勝負を挑めばいい」と反論することは適切でしょうか。経済活動が自由だからと、細菌兵器や破壊兵器などの殺戮兵器、危険なドラッグなどを売りさばくことは適切でしょうか。
経済活動としてニセ札やニセ商品の自由を認めれば、経済の信頼性が破壊されてそれ自体が成り立たなくなり、経済活動のためには殺戮兵器を売っても何をしてもいいとなれば社会自体が破壊されます。
表現の自由を守ろうとするなら、デマをまき散らし、人権を侵害し殺戮などの大惨事をも招くヘイトスピーチをまき散らすことには非常に厳しくなければならないのです。