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2017-08-26 の記事 - 2017-08-26
関東大震災の朝鮮人虐殺 小池都知事が追悼文断る

実際には「三国人」発言などで扇動する側に回っていた、あの稀代のレイシスト・石原氏ですら(仮に形式上であっても)やっていたことを見送りですか。在特会系の講演会に出ていた件からして分かり切ってはいましたが、やはり小池氏は相当なレベルのレイシストに間違いないようです。

関東大震災の朝鮮人虐殺事件は、決して過去の悲劇ではありません。むしろ現代においてその重要性が非常に高まりつつあります。
街角で平然と「朝鮮人をぶっ殺せ」の声が垂れ流され、書店に入れば韓国や中国などの他国やその国の人を貶める本の山。さらには障碍者の生存権を否定したり、LGBTを「ネタ」にして侮辱したりと、被差別者に対する暴虐の数々。現状の日本は極めて危うい状況にあります。
そして実際、熊本の震災では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」なるデマが垂れ流されたり、猟銃を持っている家に自警に加わることを呼び掛けたりと、極めて悪質な虐殺扇動が垂れ流されました。いずれも関東大震災で虐殺を引き起こす原因となったもので、いわば過去の震災でその恐ろしさが実証された殺人兵器を、現代の実際の災害時に持ち込んだわけです。
その後もいくつか災害や問題が起こっていますが、そのたびに似たようなデマが垂れ流されるのがお決まりの状態となっており、東京の停電すらヘイトデマの材料とされました。今後大規模な災害が発生し、しかもタイミングが悪ければ、いつでも災害時のヘイトクライムは発生し得ると考えなければなりません。
そして実際、差別主義はとうとう障碍者殺戮事件にまで行き着きました。この事件はこの上なく明確に、差別は人を殺すことを日本社会に示しています。しかし、それで日本社会が自らを省みたかといえば未だ他人事と言わざるを得ず、さらには犯人に賛意を示す者も決して少なくないなど、「次」が起きないと考える方に無理がある状況です。

このように、まさに関東大震災の虐殺は現代の問題であって、今ここで昨年まで行っていた追悼文送付を断るというのがいかに恐ろしい行為か、わざわざ説明するまでもありません。無論、小池氏は「朝鮮人をぶっ殺せ」と叫び立てる連中の講演会に出ていたわけですから、過去の朝鮮人虐殺の教訓を否定したとしても思想的には全くもって矛盾しないのですが、それこそ逆に極めて恐ろしい状況です。
このような場合に歴史修正主義者の必殺技となるのが「人数の問題に持ち込む」ことですが、混乱状態にある中で人数を正確に把握するのが難しいのは当然で、また1か0かで切り分けること自体に無理がある場合も多く、この理屈で言えば広島・長崎の原爆もナチスの虐殺も、それどころか公害病さえも容易に否定できてしまいます。したがって、この間違った万能論法はきっぱりと拒絶しなければなりません。
「虐殺の犠牲者」を「災害関連の犠牲者」にすり替えるのも同様。現代においても、様々な工夫によって災害のダメージを抑えることはできますが、自然災害をなくすことはできません。それによって被災者が出てしまうのは、今の人類の力では仕方のないことです。しかし、災害によって被災者が出てしまうことと、その混乱に乗じて差別扇動デマが垂れ流され、虐殺が発生してしまうことは別の問題です。後者は自然災害でも不可抗力でもなく、そもそも発生する必要すらないことです。
それどころか、これはいわば災害を舞台装置に利用して自らの差別感情を満足させようとした犯罪行為ともいえるものですから、はっきり言って「隙を見つけたので、遊びたい感情を満足させるために現金を奪って殺した」「混乱が起きて邪魔が入らない状況になったので、性的感情を満足させるために他人を襲ってわいせつ行為の末に殺した」などと同等の行為と言ってよいでしょう。これは災害による犠牲などでは断じてなく、全く次元の異なるものです。
無論、世の中の人々は「朝鮮人をぶっ殺せ」と喚いたり、その連中の講演会に出たりするような、確信犯的に自らの差別欲求を満たそうとする人物ばかりではありませんから、虐殺加担者の中にはもともとの差別意識・偏見から流言を真に受けてしまった者、つまり差別感情を満たすことを明確に意識して犯行に及んだわけではない人もいたはずです。
しかし、まさにそうした無意識レベルの差別こそが何よりも恐ろしいのですし、もしそうした人々が差別意識を持っていないか克服していて、十分な知識と判断力を有していれば、虐殺を行うことはなかったわけですから、差別をなくし知識を継承することで悲劇の再来は阻止できます。したがって、日本社会が差別まみれとなった今こそ、なおさら関東大震災虐殺事件を教訓としていくことが大事なのであって、虐殺は虐殺として引き継いでいかなければなりません。
過去の関東大震災朝鮮人虐殺にケチをつけて否定の道筋を作ることは、今後発生する恐れがある差別による虐殺事件を肯定するのと同じです。

本件については、とうとうここまで来たかという印象です。しかもこのような尋常ではないレイシストが国政に進出してくるとなれば、市民やメディア、野党などが良識を示して拒否しない限り、被差別者の尊厳や人権はいとも簡単に踏みにじられることでしょう。
そして当然、生存権を脅かされるのは何も民族・国籍的マイノリティや障碍者、性的マイノリティなどに限りません。関東大震災朝鮮人虐殺ではそれと誤認された日本人も殺戮されましたが、差別において私たちは決して加害者になってはならないのと同時に、被害者の立場と無縁であることもできないのです。
「○○人を殺せ」が平気で垂れ流され、災害の混乱に乗じて虐殺扇動デマが垂れ流され、障碍者殺戮がなされた上に称賛までなされ、透析患者は殺せと言われ、政治家が差別を平然と行う国というのはつまり、人権を守られるべき人と守られる必要がない人がいる、生存権を保証すべき人と保証する必要がない人がいる、生存を認めるべき人と生存を認める必要がない人がいる、ということです。それが「差別」というものですから当然です。
これを容認するならば、いずれは必ず自分が「認められない側」に置かれることになるでしょう。自らが他人をマチェッテで斬り殺すことを拒否し、また自らが他人にマチェッテで斬り殺されることも拒否するには、差別やヘイトスピーチ、差別政党、差別事例の歴史修正などを決して認めてはならないのです。