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雑記帳(過去ログ)
2018-10-14 の記事 - 2018-10-14
柴山文科相、教育勅語「アレンジし道徳に使える分野も」

ヘイトデモ参加者名簿と見間違うような内閣だけあって、早速これです。

どれほどひどい料理であっても、材料が腐っていたり一般に食されない代物であったりしない限り、普遍的な材料が用いられています。それこそ「教育勅語」のような異臭を放つ大失敗ゲテモノ料理であっても、素材自体は例えば塩や野菜、魚といった普遍的なものが用いられています。
しかし当然のことながら、異臭を放つ異常な料理を子どもたちに食べさせようとしたり、ましてや「これを食べられないということは、塩や野菜、魚を否定するのか?」と意味不明なことを言い立てるのは完全に間違っています。
素材が普遍的であるならば、異常な料理から多少はマシに見える部分を取り出して食べさせようとする必要はありません。同じ素材を使ってまともに食べられる料理を作れば済むことです。
それを、なぜこの手の人々は何が何でも教育勅語にこだわるのか。それが教育勅語でなくてはならないからです。彼らは子どもたちに野菜や魚を食べさせたいのではありません。何が何でも、見た目や異臭をごまかしてでも、ゲテモノ料理を食べさせたいのです。
当然、こんなものには断じて賛同などしようがなく、全否定されなければなりません。

ところでこの教育勅語、普遍的でまともなことも書いてあると主張する人はいるものの、私としては「普遍的でない」人に対して全く普遍性を持たない点が気になっています。もっと踏み込んで言えば、こんなものは教育で押し付けるような内容ではなく、むしろ普遍的から外れた人々の権利を守ろうとする内容こそ今の道徳教育に必要ではないかと考えます。

以下、「教育勅語は普遍性を持つ」と柴山文科相が言ったので、現代語訳を読んでみましたの戦前の文部省図書局による口語訳より。

・父母に孝をつくし
「父母」がいない者がいるのもさることながら、親から嫌がらせ・暴力行為・性的行為・ネグレクトなどの虐待を受けた者にとって、「孝をつくせ」は呪いの言葉です。それを言う方には悪意がなく、それ自体は世間的には正しいとみなされており、言われた方は真正面から反論することが難しく、それでいて魂を深々とえぐる、まさに言葉の凶器に他なりません。
こんなものは国や学校が押し付けるようなことではありません。それよりもむしろ、虐待の概念や知識を道徳などの授業でしっかり教育し、相談窓口などの情報を十分に提供し、虐待を受けた本人、または虐待らしき事例を見かけた周囲が動ける環境を整えて、父母や保護者による虐待から身を守れるようにする方が重要でしょう。

・兄弟姉妹仲よくし
これも同様。事情は様々ですから、仲よくしろと押し付けられるようなものではありません。肉親だろうが誰だろうが、他人を踏みにじったりするような輩を嫌うのは当然。

・夫婦互に睦び合い
これもまた呪いの言葉。睦び合いたくてそうするのは個人の自由ですが、配偶者が家庭内暴力(精神的・物理的を問わず)を行うような場合、そのような者と睦び合う必要など何一つないのです。
実際に学校で教育すべきは、家庭内暴力の知識でしょう。精神的な支配なども家庭内暴力となり得ること、ハネムーン期というものがあってなかなか逃げられない心理状態になること、しかし即刻逃げて身を守るべきであることなどを教育し、身を守る知識を提供すべきなのです。
ちなみに、破滅的な夫婦関係なのに、子に対しては親が無理に配偶者を立てようとするケースも珍しくないようで、当然子どもはそれを完全に見抜いていて、逆に白けていたという話をしばしば耳にします。とはいえ、こんなものが正常な状況と勘違いされれば世代連鎖の可能性があるわけで、白けた方がまだマシなのですが。「睦び合」うべしという呪いの成れの果てです。

このように、「普遍的」な呪いの言葉で人をがんじがらめにするのではなく、「普遍的でない」人が命や権利を守れるような教育こそ、本来目指すべきものでしょう。これは教育の理念、すなわちあらゆる人に一定の知識を提供するという点からしても妥当なものです。
他にも、教育勅語のほとんどは「部分的には正しいと強弁できなくはないものの、国がそれを言い出してはどうしようもない」「反面教師としては役に立つ」「むしろ国がそれを守れ」と言わざるを得ない事柄で構成されています。

・朋友互に信義を以て交り
友人関係も人によって様々なのでは。どうして友人とのあり方までああしろこうしろと言われる必要があるのか

・ヘりくだって気随気侭の振舞をせず
麻生氏にでも言っては?
それと、インターネットやら書店やらテレビ欄やらには「日本スゴイ」「中韓はダメ」が並んでいるようなのですが、これはどうしましょうか。
これらを事例として挙げた上で「こういう最低な行為は人間として恥です」と教育するなら大いに結構。また、こうした行為は「愛国心」を御旗として行われますから、当然「愛国心」とやらを疑う教育もセットにする必要があります。

・人々に対して慈愛を及ぼすようにし
福祉・被災地切り捨て真っ最中の政府に言っては?
自己責任バッシングや「生産性」論を一切否定する教育を行うなら、あってもいいでしょう(ただし、これは本来「慈愛」とは別の次元で否定されるべきものなので、あくまでとっかかりとして)。
逆に、人々の慈愛や助け合いによって国の責任をあいまいにするようなことがあってはなりません。例えば被災地ボランティアは慈愛に含まれるでしょうが、災害対策や復興は本来国の責任であって、ボランティアはその隙間を埋めるものでしかありません。

・学問を修め業務を習って知識才能を養い
これは国に言われるようなことではありません
学問を収め、知識才能を養うのは、言うまでもなく非常に素晴らしいことです。しかし、それはあくまで本人が自分のためにやるものであって、国のためではありません。せいぜい「国に還元されたらラッキー」程度。国が教育環境を整備すべきなのは、学問・教育は人の権利であるからです。
国がウダウダと言い出し、学問や知識は国のためということを隠さなくなると、人間としての見識を広げ、時として発見ももたらす「無駄な知識」は第一に切り捨てられ、果ては「法学部では憲法や刑法ではなく、大型二種免許を取得しましょう」「工学部では機械力学ではなく、トヨタの機械の使い方を覚えましょう」などと頭のおかしい案を大真面目に言い出すことになるのです。

・善良有為の人物となり
同上。善良とか有為とか、なぜいちいち国に決められねばならないのか。それに、国からすれば邪悪の極みでも、市民にとって善良有為な人もいるでしょう。
例えば多くの沖縄県民に評価された翁長氏は、安倍政権にとっていかなる人物でしょうか。与党議員・杉田氏にとって「生産性のない」LGBT、そしてLGBT差別に抵抗する人々はどう見えるでしょうか。

・進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし
教えるべきは「公共の利益」よりも「公共の福祉」です。

・常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し
法令にせよ典範にせよ規則にせよ、それらは公正性を保つ上で必要だから守られるべきなのであって、そうでない場合にもとにかく守れと言い立てるのは正しくありません。
例えば、ローザ・パークス、杉原千畝、ナチスへのレジスタンスなどは、いずれも規則を尊重しなかったから評価を受けている人々です。
政府がお友達に多額の国有財産を提供する汚職をしたならば、それを知った人は規則としてそれを公開してはいけないことになっていても、公正性のために世に出すのが正しい行動です。その記録の改ざんを命じられたならば、本来従わなくてはならないとしても、それを拒否するのが正しい行動です。
児童・生徒にとってもっと身近な例で言うなら、人権を侵害するブラック校則は守らないことこそが公正性に資する行為です。
不公正な規則であっても、とりあえず遵守しておいた方が楽ではあります。しかし、その規則によって蹂躙されるのに耐えるだけの余力が残っていない人もいます。そうした人を理不尽な規則から守るためにも、公正性に反する規則に対しては、余力がある人や直撃は受けない人が率先して抵抗しなければなりません。
なお、「憲法」の「尊重遵守」に限ってはしっかり教育してよいと考えています。憲法を守るのは権力であって、それを守らないような権力は即刻退場させなければならない、ときっちり教えるべきでしょう。

・万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧けて皇室国家の為につくせ
論外
特攻犠牲者や戦没者に関して、よく「亡くなられた方々のおかげで今の日本の発展がある」などと言われたりしますが、つまり第二次世界大戦で仮に日本人全員が一身をささげて一人残らず玉砕していたら、日本には相当に分厚い礎が築かれていたことでしょう。そうなれば、きっと日本は米国や中国など到底相手にならないほどの大発展を遂げ、世界一の国となったに違いありません。全員死んでいるのに誰が発展させるのかは知りませんが
なお私は、教育勅語のこのフレーズを道徳教育で取り上げることには反対ではありません。「こんなふざけた幼稚なスローガンのもと、若者は命を投げさせられた」と教育する上で、これほど有効なものはないからです。ついでに、特攻などを命じて若者を散々死なせた連中がしばしば生き延びて天寿を全うしたり、国のために身をささげた人ではなく逃げ延びた人こそが戦後の発展に関与できた事実もしっかり伝えるべきです。

天皇がどうたら、先祖がどうたらといった妄想文の部分はバカバカしいだけなので、武士の情けで取り上げないでおきます。なんであんな恥ずかしい文章と「ヘりくだって気随気侭の振舞をせず」が同居できるのか。さすがはヘイト政権お気に入りの文だけはあって、そこら辺のヘイト本に書かれていそうな内容です。
このように、教育勅語の逆を行き、人権の大切さや身を守る方法を教えるきっかけとして用いるのであれば、確かに教育勅語は案外良い教材になり得ます。当然、柴山氏やヘイト内閣の面々が見れば即座に脳の血管が切れるような教材ができあがるでしょう。

2018-10-06 の記事 - 2018-10-06
勝利は容易ではないとされていた沖縄知事選でしたが、ふたを開けてみれば玉城デニー氏の圧勝に終わりました。
この選挙に対し、与党は「総力戦」を展開していました。今の自民党や政権における「総力戦」とはすなわち、自民・公明・維新・創価・幸福カルトが勢揃いし、国会議員から各勢力の「飼い犬」までがデマとヘイトの限りを尽くし、自らの力の優位性を用いて締め上げ、選挙の自由や秘密選挙を損なうような手段を用い、ありとあらゆる外道で卑怯で非民主的な手を駆使して勝ちに行くことです。
玉城氏が勝ったのはもちろん、このような卑劣な手段を使った側がきっちり敗北したのは非常に素晴らしいことで、喜ばしいというよりはほっとしています。

ただし、問題はこれからです。玉城氏が圧倒的な勝利を収めたまではいいものの、このままでは氏が十分な成果を上げることは難しいでしょう。そして、氏がなかなか成果を上げられないことをレイシスト連中にあげつらわれ、失敗知事のレッテルを貼られる危険すらあり得ます。
無論、玉城氏の能力が足りないわけではありません。本土及び日本政府と沖縄では力の差がありすぎるのです。沖縄単独でこの状況を支え続けるなど、神様が知事になってすら不可能です。これは翁長氏も苦しみ続けた点ですが、本土が圧倒的な力で殴りつけてくる限り、沖縄は責任者の実力の程度など無関係に、日に日に追い詰められていきます。これに根を上げ、本心を殺して「降伏」を選びたがる沖縄人が出てきても、責めることはできません。
すなわち、本土が沖縄いじめをやめ、沖縄を踏みにじる政府を拒否し、沖縄の側に立たなければなりません。
沖縄はすでに、徹底的に卑劣な手段を用いて勝ちを得ようとした与党系候補を退けてまで、その民意を示しました。沖縄が果たすべき責任はここまでです。ここから先は100%、本土の責任なのです。

沖縄県知事選 玉城デニー氏が初当選 「菅官房長官と小泉進次郎氏の演説で失敗」(自民党幹部)

別にこの件が致命傷というわけではないでしょうが、いつもの「総力戦」を用いても勝てなかったのは確かです。
ではなぜ、沖縄には「総力戦」、すなわちデマとヘイトにまみれた卑劣な選挙戦略が通用しなかったのでしょうか。

卑劣なデマとヘイトが佐喜眞陣営にとって逆効果になった、との主張も見られますが、私はそのようには考えていません。おそらく、「総力戦」は沖縄でもそれなりの効果を上げていました。当然、卑怯な手段に対する反発から票が逃げた側面は確かにあるはずで、そのどちらが多いかを決定できるだけの情報を私は持ちませんが、差し引いても一定の効果はあったのではないかと考えています。
でなければ、直接の制御が難しい野良レイシスト連中はともかく、陣営側の国会議員、例えば遠山氏までがデマ流しに加わる理由はありませんし、おまけに氏は知事選後に公明党の幹事長代理のポストを得ており、デマ流しのご褒美、というのは言い過ぎにしても、少なくとも問題視はされていないことが分かります。
ただ、本土ならばデマとヘイトでほとんど勝ちを収めることができるところを、沖縄では勝利を得られるほどまでに絶対的な作用を持たなかった、というわけです。
そして、与党お得意のデマ・ヘイト戦略では勝ちきれなかった以上、残りは普通の選挙戦、すなわち政策や人柄、誠実さなどでの勝負となります。こうなると、沖縄の一大関心事である基地問題は隠し続けて「携帯電話の料金を下げる」などと知事の権限では不可能な政策を言い立て、陣営の非公式応援者の蛮行はもとより国会議員までがデマを垂れ流し、しかも佐喜眞氏自身が日本会議のメンバーであった上にそれを隠そうとするなど、非常に問題が多かった佐喜眞陣営が、ルーツからしても多様性を象徴するような存在であり、ヘイト陣営とは対極にある玉城氏に太刀打ちすることは難しくなります。

本土ではあれほど強烈な効果を見せるデマやヘイトが、沖縄ではあまり効かなかったことには様々な要因があるのでしょうが、私はこれを「踏みにじられてきた沖縄だから」ではないかと考えています。
本土はもはや、デマとヘイトにまみれています。少し強烈な言い方をするならば、自らの人権の一部、健康で文化的で文明的な生活の一部を放棄するのと引き換えに、「デマ」という幸せになる粉、「ヘイト」という弱い立場の人々の頭を土足で踏みにじる娯楽を与えられ、その快楽に浸っているのが今の日本です。
インターネットにヘイトが現れない日はなく、本屋に行けばヘイト本が積まれ、テレビを見ればヘイト番組や日本スゴイ番組。若い世代はインターネット、年配世代はヘイト本とテレビ。症状をこじらせた若者はPCや携帯端末でヘイトを書き散らし、年配者は懲戒請求を書き散らす。そこまでこじらせていない者でも、極めて自然に差別や偏見を口にする。老いも若きもこの快楽に漬かり切っています。
国会議員の杉田氏はむごたらしい文章を新潮45に記載し、東京の小池氏は朝鮮人虐殺への追悼文送付をせず、大阪は歴史修正主義によってサンフランシスコ市との姉妹都市を解除する。極めつけはヘイト人員ばかり寄せ集めた内閣改造。こうした国・地方の両方における政治家の動きは、直近のものだけでもかなりの数に上ります。
こうしたヘイトのターゲットとなる相手は、韓国・朝鮮人、中国人、その他外国人・難民、障碍者、性的マイノリティ、女性、生活困窮者、少数民族者など。当然、普段は「沖縄」もそのターゲットの中に入っています
日々ひどい言葉を投げかけ、基地などの負担は押し付け、今まで散々踏みにじってきた沖縄に対し、選挙となるなり「お前らにもデマとヘイトの快楽を与えてやる。だから基地問題などへの抵抗をやめ、沖縄としての尊厳を放棄しろ」と言わんばかりのデマ・ヘイト。
本土であれば勝負を決めるのに十分なだけの住民がヘイトデマに影響され、その幸せの粉によってありもしないものが見えるようになり、居もしない「敵」と戦って快楽に酔いしれ、与党側候補が勝ちを収めるところですが、沖縄は決してその尊厳を売り渡しませんでした。佐喜眞氏に投票しなかった人のみならず、色々と大変な事情があって佐喜眞氏に入れた沖縄人の中にも、その陣営のやり方に疑問を抱いていた人は多いのではないでしょうか。
そして、沖縄がそれを拒否する民意を示した後、都合の良い時だけは「沖縄は日本だ」などと言ったりするヘイト連中がどのような態度を取ったかは、これを見ての通りです。

玉城デニー氏当選後、「総攻撃」「再占領」など沖縄をめぐる暴力的なツイート相次ぐ

こんなもの冗談では済まされませんし、実際冗談ではないのでしょう。
結局、どうあっても沖縄はヘイトの対象でしかないのです。沖縄の人々がこのような連中の願い通りにならない決定を下したのはやはり尊いことだと、つくづく考えざるを得ません。

ところで、なぜ本土は頑なに沖縄の言い分を無視し、沖縄をいじめる政府を選び、沖縄に苦痛を押し付け続けるのか。
よくある答えとして「本土が基地負担などを受け入れなくて済み、都合が良いから」というものがありますが、私はこれに疑問を持っています。
仮に本土で基地の一部を持つことになったとしても、多くの人にとってそれが自分の家の隣に来る可能性は限りなく低いのです。近所が高確率でその候補となり得る人ならともかく、何が何でも過大な負担を沖縄に押しつけ続ける理由として、それほど強力な動機には見えません。ほんのわずかでもリスクがあるなら嫌だというなら、福祉削減政策にでも反対する方が合理的ですし、誰か本土の人間が苦しむのは嫌だというなら、沖縄人の苦しみも無視できないはずです。
また、地理的な面を考えたとしても、実際には基地は必ずしも全部沖縄に置く必要はありません。翁長氏も玉城氏も知事として基地の全廃は求めておらず、こんな理不尽な負担はもう無理だと言っているに過ぎません。沖縄の負担問題は地理的問題でも国際問題でもなく、内政問題とみなすべきものです。
結局、建前としてこれらの理由を口にすることはあったとしても、そればかりが理由であるとは到底考えられないのです。

それでは、他に何が理由なのか。沖縄が生意気にも反論し、抵抗し、負担を嫌がるのが気に障るから、というのが理由の一つであると、私は考えています。政府が翁長氏時代の沖縄に対してやってきたいじめはまさにそれですし、そのやり方に多数の本土の人々が激怒し、政府が窮地に立たされるようなこともありませんでした。
実際、これは沖縄に限った話ではありません。同性愛者を「気持ち悪い」としながら、ならば気持ち悪い連中など放っておけばよいものを、差別解消などを訴えるLGBTにいちいち攻撃をかける者。自力でタラップを上がり、バリアフリーを訴える障碍者を攻撃する連中。テレビで貧困について訴えた女子高生を攻撃する、国会議員までもを含む連中。性被害を訴えた女性を攻撃し、とうとう「亡命」にまで追いやる連中。いきいきと活躍する韓国ルーツの人に、非道な暴言を投げかける連中。
結局、見下し、差別し、踏みにじっている相手が、声を上げたり、抵抗したり、活躍することが気にくわないのです。
沖縄知事選で敗れた後、安倍氏は内閣改造を行い、内閣のメンバーというよりヘイトデモ参加者のリストにしか見えないほどにすさまじい人事となりました。沖縄での敗北を受けて、ますます極まったヘイトをぶつけることが、本土の世論の評価を得る上で得策であると判断しているわけです。

今回の沖縄の体験を弾みとして、立憲野党は次の選挙に備えることになるでしょう。ただ、私はそれが沖縄のようにいくとは全く考えていません。
人に踏みにじられる痛みも知らず、人を踏みにじる快楽に漬かっている本土に対しては、今後とも「総力戦」は効果的すぎるほどに効果を発揮するはずです。

ネット右翼に足を引っ張られた佐喜眞候補【沖縄県知事選挙 現地レポ〜敗北の分析】

この記事。佐喜眞陣営は「勘弁して欲しかった」としていますが、到底信じられません。
というのは、もし佐喜眞陣営がこれを本気で迷惑とみなしていたならば、そのようなヘイト連中の存在に一言たりとも言及することなく、しかも印象の良いポジティブな訴えによりヘイト連中を追い散らす、ポジティブカウンターが可能であったためです。

佐喜眞氏の支持者により、玉城氏は中国の手先だの、中国が侵略してくるだのと散々デマが流されましたが、実は佐喜眞氏こそが沖縄県日中友好協会の顧問であるという情報が掘り出されています。
無論、私はこれについて佐喜眞氏を批判するつもりはありません。日中友好、実に素晴らしいものではありませんか。私は佐喜眞陣営のやることなすこと、そのほとんどに賛同できませんでしたが、日中友好を目指すのであればその点だけには大いに賛同します。
沖縄から日中友好を訴え、友好の懸け橋となる。これは携帯電話料金値下げなるインチキ政策と違い、知事の権限で十分に実現可能です。経済面でもメリットがあり、経済振興を訴える佐喜眞氏の方向性にも合致しています。友好的で穏健な姿勢をアピールでき、無党派層の支持も得られます。加えて、中国を悪魔化してデマとヘイトの限りを尽くしている非公式応援団の連中も、蜘蛛の子を散らすように退散することでしょう。
必要なのはただ一言、「私は日中友好協会の顧問です。知事になったら日中友好をどんどん推進していきます」と宣言するだけ。ただそれだけで、これほどのメリットが生まれるのです。
ところがどうか。大迷惑な非公式応援団が徹底的にヘイトとデマを垂れ流す中で、佐喜眞陣営からそのようなことは一切なされなかったのです。非公式応援団による中国を悪魔化したヘイトに頭を痛めていて、直接の言及は避けつつそれを止めたいと考えているなら、自分が日中友好アピールをするのが一番であることなど、誰にでも分かりそうなものです。
なぜしないのか。こうした非公式応援団こそが、佐喜眞陣営の真の応援団であることを知っていたからです。中国ヘイトに染まった連中こそが、自分の票田であると理解していたからです。

「日本ではない国に行けば」 翁長知事の息子が投げかけられた言葉

興味深い記事ではあります。
が、しかし。

>すごくこんがらがっていた。保守的な思想と、しかしながら基地に反対したい思想と。それの整合性が取れずに、どんどん「ネトウヨ」になっていった。

>それも一つの経験だったし、だからこそ今の自分があると思いますので、諌める気はありません。


他人の魂を殺傷し、その尊厳を踏みにじっておきながら、この認識の浅さは一体何なのですか
レイシストになるというのは、ここまで軽々しく語れることではありません。それは人々の魂を殺す行為ですし、現実に命を失う人もいます。レイシストから脱却できたとして、贖罪に必要なのは数年か、数十年か、あるいは一生涯か。それほどに重いことなのです。

氏のような人に聞いてみたいことがあります。

もしあなたが、快楽のために人を殺したとします。その後、あなたが「人殺し」ではなくなるためには何をすればよいですか?

これは答えのない問題です。服役して出所すれば、刑法上の責任は終えたことにはなっても、おそらくそれで「人殺し」でなくなるわけではないでしょう。
贖罪を済ませた時でしょうか。では、何をすれば贖罪といえるのか。遺族に許された時でしょうか。では、遺族がどこにいるか分からない場合は?それとも、快楽目的で人を殺してしまった以上、死ぬまで「人殺し」であり続けるのでしょうか。
その上で、次にこう問います。

あなたは快楽のために人の魂を殺しました。その後、あなたが「魂の人殺し」ではなくなるためには何をすればよいですか?

私は、この翁長氏の息子という方がレイシストでなくなったとは考えません。本当にレイシストではなくなった人間の態度ではないからです。
たとえ塗炭の苦しみを味わわされ、針の筵に巻かれ、踏まれ蹴られ、そのままドブに突き落とされても、全く文句は言えないどころか、被害者の苦しみに比べればあまりにも軽い。人の魂を殺し、その尊厳を踏みにじった代償はあまりにも重い。差別とは、レイシストになるとは、そういう行為です。

そして案の定、ヘイト市議・小坪氏と面会していたことが判明。自分の罪が認識できていないから、こういうことになります。しかも、知らなかったなら「よくないことでした。今後は気を付けます」で済むところを、「会いたいと仰る方とは会う」「排除の論理が嫌い」と自称中立ヘイト勢のような定番の言い訳。無論、安田浩一氏のように反差別を明確にし、差別について十分な知識を持った上でレイシストを取材することはあってもよいのですが、この言い訳の様子ではそれとは程遠いと考えざるを得ません。
どうぞ、きっちり反省してから出直しておいでください。自分の罪を正しく認識し、その重さにのたうち回って苦しみ、果てのない贖罪を決意し、それからおいでください。現状のこの方の言い分からは、懲戒請求で反撃を受けそうになり、慌てて謝罪という名の言い逃れや責任転嫁をした人々と同じ匂いしかしません。

2018-09-28 の記事 - 2018-09-28
「新潮45」休刊のお知らせ

なぜ「差別をしたことをお詫びします」と言えないのですか?このような事態を招いたことについてお詫び」するそうですが、このような事態さえ招かなければ差別をしてもいいと考えているのでしょうか。謝罪する相手も、まず第一には新潮社が差別でぶん殴った被差別当事者であるべきです。

>しかしここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。

言い訳として無理があります。
確かに、人間誰しも間違いはあるもの。杉田文章を記載してしまったことについては、それこそ新潮45の10月号の誌面を使用し、徹底的な社内調査の結果と処分の報告、杉田文章への反論やファクトチェックなどを行い、二度と差別をしないと会社として宣言し、反差別特集を組むくらいのことはしていれば、少なくともここまでの事態は避けられたでしょうし、逆に信頼を得ていたかもしれません。
実際、メディア・文筆家・被差別当事者・一般の人々などから、あの文章がどれほど劣悪で不当なものであるか、あらゆる切り口から理を尽くした反論がなされており、新潮にはこれが過ちであることを認識する機会がいくらでも与えられていました。
ところが、新潮45は再び被差別当事者をぶん殴ることを選択します。一度目の時点で言うならまだしも、それが猛批判されている状況でわざわざ二度目をやっておいて「企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」とは何事ですか。企画を厳密に吟味し、十分な原稿チェックの末に行われたのがあの記事であると考えるのが妥当です。

結局は休刊となりましたが、「ああ、そうですか」の一言。最も重要なことがことごとくなされていないためです。
「差別をしたことに対する」謝罪、徹底した原因究明とその公表、厳格な処分と再発防止策の策定、二度と差別はしないとの誓約がなされるならば、新潮45を休刊するか否かはさしたる問題とはなりません。たとえ新潮45が存続されたとしても、そこに差別が掲載されることはなくなるためです。
しかし、新潮社はそれらを全く行いませんでした。原因はほとんど解明されず、差別を生む土壌は放置され、意味のある処分は行われず、お詫び文に至っては「差別」の「さ」の字も出てこない始末。全く何も変わっていない以上、新潮45が休刊となったところで、新潮社は別の書籍をいくらでも差別に用いることができます
また、新潮45自体も部数が低迷していたわけですから、もともとがお荷物であったところに、今回の件で著しくイメージが悪化して厄介者でしかなくなった新潮45を切るというのは大して重い判断ではありません。会社の中でも大きな利益を生み出している重要商品を切るならまだしも、これでは区切りとしての意味すら持ちません。
したがって、この休刊がそれほど重要であるとみなすことはできません。

無論、休刊されたことが良いか悪いかと問われれば、私は良いと答えます。
新潮社は言論を扱う老舗の大手でありながら、その言論を人々の魂を殺戮するための兵器に転用し、それを実際に用いて人々を蹂躙し、それが問題になっている状況下で平然と二度目の殺傷も行い、しかも差別を謝罪することは一切ないなど、極めて攻撃的で危険かつ全く歯止めの効かない存在であることが明らかになりました。
そのような者の手から、「新潮45」という二度にわたって人々の魂を殺傷した実績のある凶器を弾き落としたことは、たとえ新潮社が凶器に転用可能な道具を他にいくらでも所有しているとしても、十分に意味があることです。

ところで、新潮45はどうすべきであったか、そもそもの発端である杉田氏はどうすべきであったかについては、人々の間でもいくらか見解が分かれているようです。休刊の決定に関しても、評価する声もあれば、残念とする声も聞かれます。
なお、休刊は残念とする声については、私も「新潮が自ら、調査結果を公表し反省を述べ、差別をしない誓いをする場を放棄した」という意味に限って同意見です。もっとも、今の新潮がそれをする可能性は万に一つもないため、結果的には休刊の方がマシという結論に至らざるを得ません。
今回ここで私が反論しておきたいのは、「せっかくの誌面の場なのだから、擁護・否定両方の意見を取り上げて議論の場を提供すればよかった」「新潮45は別の人間に反論させるのではなく、杉田氏に反論をさせるべきだった」という2つの意見についてです。

誌面で「擁護・否定両方の意見を取り上げる」ことは明確に間違っています。
議論のある言論について、これを行うことは妥当な場合も多くあります。しかし、差別は言論ではなく単なる暴力です。
世の中の過半数の人は異性愛者に生まれつきますが、それはたまたまでしかありません。マジョリティに生まれついた人でも、同性愛者に生まれていた可能性、トランスであった可能性、あるいは障碍を持って生まれていた可能性、在日韓国・朝鮮人など今の日本で差別の対象となっている属性に生まれていた可能性があります。
そして、そうした属性に生まれついた人々に対して、その属性に生まれついたことを理由として行われる、魂を殺傷し、その生存権や平穏な生活を脅かし、人間としての尊厳を踏みにじる暴力行為について、「それは行われるのが妥当か、行われるべきではないのか、両方の立場を取り上げて議論しましょう」などというのは明確な差別への加担行為であり、明らかに間違っています。
書籍がこんなものを自由な言論として載せるのであれば、そんなものは匿名掲示板の片隅の差別落書きを記載するのと何一つ変わるところはありません。何のための書籍で、何のためのブランドで、何のための校閲でしょうか。そして、出版社のブランドを掲げて書店にずらりと並べられた書籍は、わざわざ見に行かないと見られない匿名掲示板の差別落書きの比ではないほど多くの人々の目に触れ、その尊厳を踏みにじり、強烈なダメージを与え、また多くの人々の差別意識を扇動します。
これは書店にしてもそうですが、「どんな言論も分け隔てなく扱う」といったような言葉は耳触りこそ良いものの、これは「理不尽な暴力も非暴力と同列に扱う」「出版と落書きの差、つまり出版社や書店が持つべき役割を放棄する」と言っているのと同じです。正当な言論と、言論の名を騙る暴力行為は、区別されなくてはなりません。
差別に賛否の議論などあり得ません。これは大前提です。杉田文章はもうここでいちいち説明する必要がないほど多くの人々によって語りつくされていますが、偏見と事実誤認と全体主義的思想と差別意識に基づく明確な差別でしかありません。その賛否を誌面で議論することなど、当然あり得ません。

「別の人間ではなく杉田氏に反論をさせる」のも誤りです。これ以上杉田氏の文章を記載してよいのは、氏が以前の自らの差別について謝罪・撤回の意思を表明する文章を書いた場合のみで、反論を記載するなどもってのほか。それはすなわち、再び差別を垂れ流す結果にしかなりません。
「批判を浴びた杉田氏に反論の機会がないのはおかしい」との声もあるかもしれませんが、そもそも最初の文章が載ったことがおかしいのです。本来なら到底記載できないような劣悪なヘイト文章でも、最初に載せてさえしまえば、次以降も反論の体さえ取れば載せていい、というようなことは到底認められません。また、杉田氏は公人ですから新潮45でしか物が言えないわけではなく、それどころか例の差別についての問いから逃げ回っておきながら、好き勝手に講演会などをやっています。もともと力も発言力もある公人と大手出版社が被差別当事者をいきなりぶん殴り、彼らを萎縮させることの方が、発言の機会を奪う意味では何倍も深刻です。
そして、もし氏に反論など書かせようものならどうなっていたか。それは、杉田氏の反論こそ記載されたわけではないものの、新潮45が批判への反撃として行った反論特集の惨状が物語っています。
どの反論もそれなりに問題のあるものであったことが指摘されていますが、中でも小川氏の主張たるや、今回見識のなさを著しく露呈することになった新潮社をもってしてもかばいようがないほど劣悪なものでした。偏見だとか、稚拙だとか、低レベルだとかいう領域はとうに超え、もう狂気の沙汰と表現した方が適切ではないかと考えるほどです。
杉田氏の文章は、その表現の表層だけを見れば、いくらなんでも小川氏ほど狂気に満ちたものとはなっていません。しかしながら、LGBTに対する著しい偏見・差別・事実誤認に加え、ナチスや相模原事件と極めて親和性の高い「生産性」論を展開して全方位的な差別の火種を作るなど、杉田氏の主張がその中身において小川氏よりひどくないなどとは到底言えないと私は考えています。なにしろ、そもそもこのような事態に至るほどまでの大騒乱をまず巻き起こしたのが、他ならぬ杉田氏なのですから。

実は差別主義者たちも、その多くは理由もなく差別をしているのではありません。彼らなりの理由があって差別をしているのです。ただしその理由たるや、小川氏が本音を包み隠さず垂れ流してくれたおかげで分かるように、極めて理不尽で見るに堪えないようなものばかり。これは小川氏が特別ひどいというより、小川氏があまりに本音を直接的に伝えるような言葉選びをしただけで、差別主義者が差別をする理由などほとんどこれと五十歩百歩です。正当な差別というものが原理上この世に存在し得ない以上、当然ではありますが。
杉田氏に反論をさせ、理由を語らせようものならどうなっていたか。小川氏のような言葉選びをしないだけで、内容としてはどちらがひどいとも言えないような地獄絵図が繰り広げられたであろうことは想像に難くありません
そしてそれは、今回の新潮45の反論特集がそうであったのと同様に、被差別当事者の魂を殺し、人間としての尊厳を徹底的に踏みにじることを意味します。そのようなことは決して許されないのです。

2018-09-22 の記事 - 2018-09-22
杉田水脈氏への批判は「見当外れ」 新潮45が掲載へ

話題の"そんなにおかしいか『杉田水脈』論文" 寄稿者のLGBT当事者が論文を書いた理由

「ごめんなさい」も言えないのか、この連中は

あきれ果てました。LGBTに対する無知と偏見に基づくばかりか、「生産性」などとして全方位に差別の種をまき散らした杉田氏が批判を浴びるのは当然ですし、それすらなされなくなったら社会は終わりです。思想的には在特会とほぼ変わらない自民党ですら、当然ながら同じ思想の杉田氏を処分までするわけにはいかないにしても、注意はしてお茶を濁しました。
それを、この雑誌は未だにヘイトの上塗りですか。この連中はヘイトを塗り重ねているつもりでも、実際には自らに対して恥を塗り重ねていると知った方がよろしいでしょう。

>主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのかけらもなかった。あの記事をどう読むべきなのか。LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考をお届けする。

レイシストの常套手段とはいえ、何を被害者ぶっているのか
まずLGBT差別と「生産性」論でマイノリティに襲い掛かったのは杉田氏及び新潮45の側です。差別とは人の魂を傷つけて殺すものですし、最悪の場合は実際に死者が出ることもあります。LGBTの自殺率が高いことに笑いながら言及した杉田氏はそのことを知っているはずですし、生産性で人の価値を図った相模原事件のようなヘイトクライムもすでに発生しています。
すなわち、杉田氏と新潮45はマイノリティの集団に向かって機関銃を乱射したも同然で、こんなもの各メディアから批判されない方がどうかしています。しかも、これらの批判は杉田氏や新潮45の「属性」ではなく「行為」を理由としたものであって、LGBTや「生産性」論によって他者の属性を攻撃した杉田氏・新潮45と好対照をなす、極めて正当な批判です。
「生きづらさ」も何も、それは確かに日本はマイノリティにとって問題のありすぎる社会でしょう。なにしろ、与党政治家と有名出版社がその発信力を武器にいきなり襲い掛かってくるほどなのですから。こんなものは政治が生きづらさをどうこうする以前も以前の問題で、単に「お前らはマイノリティを襲うな」の一言で済む話です。
新潮45とは一体どこまで無知なのか、あるいは恥知らずなのか。開いた口が塞がらないとはこのことです。

「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」。出版各社が「新潮45」批判RTの新潮社アカウントに援護射撃

新潮社内部にもまともな人がいるのか、新潮45に対して批判的ともみなせるツイートやリツイートを行い、他の出版社も援護している、という話。これを理由に新潮社内のまともな人々を称賛する声もあるようですが、私としてはそんなものは到底称賛になど値しないと考えます。
新潮45は何の罪もない人々を、LGBT差別及び「生産性」論によって思いきりぶん殴りました。それに対しては当然、当事者及び周囲の人々から「何をするんですか!」という声が上がるわけですが、それを受けて新潮45は再びマイノリティの人々をこれ見よがしにぶん殴りました。
こんな異常者に対して同じ組織の人間がやることが、新潮45の姿勢に批判的とも取れるツイートだとか、新潮を批判するツイートのリツイートですか。新潮45が拳を真っ赤にしてマイノリティをボコボコぶん殴っている最中に、遠くからポップコーンを投げているようなものではないですか
こんなものを会社の良識、自浄作用とみなすわけにはいきません。同じ組織内の狼藉に対し、せいぜいポップコーンを投げる程度の抵抗しかできないのであれば、そんな組織はすぐに差別連中に飲み込まれてしまうでしょう。新潮社の創業者・佐藤義亮氏の「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」の言葉を引くからには、さすがに殺されて来いとまでは言わないにしても、それを引くに恥じない覚悟は見せてもらわねばなりません。
新潮45がマイノリティを殴りつけている場面に割って入り、新潮45を全力でぶん殴り、人々に「うちの会社の者がご迷惑をおかけしました」と頭を下げてから新潮45を引きずって帰る。これくらいはできなければ、到底称賛に値する域には達しません。組織の論理だの何だのは、殴られている人々には関係ありません。

ただ、新潮だの講談社だのの醜態を見ても分かるのは、つくづくヘイトは日本において魔法の杖であるということ。
これをかざせばあら不思議、冴えない自称活動家の下に人と寄付金が集まり、字幕だらけの実にくだらない手抜き動画でも利益が出せるようになり、出版不況で悪戦苦闘していた書店では本が売れるようになり、出版社も一山当てることができ、政治家は固定的な支持層を確保できる。これが日本社会におけるヘイトスピーチの位置です。
無論、タダでそんな錬金術のようなことは起こりません。その代償として、まずマイノリティに対する差別が扇動され、マイノリティにとっては生存権すら脅かされるような社会となります。これで大金が生み出されているわけですから、その代償がどれほど大きなものとなるかは容易に想像できようというもの。しかし、どれほどマイノリティが地獄のような苦しみを味わおうとも、出版社などの「売る」方には何の打撃もないため、彼らには高い倫理観や想像力が求められるのです。
それでもなおヘイト商売をやめないでいれば、その次には自らの会社及び業界が築いてきた信頼が破壊されます。例えば私は本が好きですが、以前にとある書店でヘイト本コーナーが作られているのを見て以降、その書店チェーンでは一切何も購入していませんし、立ち入りも控えています。私は本が好きなのであって、魂を削られるために本屋に行くわけではないからです。たとえヘイト商売をやめたとしても、当面はそこで本を購入したいとは考えません。今回、これと同様に新潮の態度に激怒した人は多いのではないでしょうか。
結果、ヘイト書店やヘイト出版社から本を愛する人は立ち去り、代わりにその大半は特に本を愛してもいないレイシスト相手の商売となり、ヘイト本ブームが終わった時には焼け野原が広がるのみ。それから頑張っていい本を出したとしても、「あのヘイト出版社の本か」とみなされるだけです。
ヘイト商売とはすなわち、他人の生命や平穏な暮らしを生け贄とし、自社及び自分の業界を切り売りする行為であると認識し、この呪われた魔法の杖を手放すことができるかどうか。「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」の名言が何を戒めているのか、果たして彼らには理解できるでしょうか。

「新潮45」2018年10月号特別企画について

新潮社からのアナウンスが出ましたが、結局何が言いたいのか。何か書いているようで何も書いておらず、意味のある文章とはみなせません。
もし本件を本当に問題であると考えるなら、即刻それに見合うだけの極めて厳重かつ徹底的な処分を発表し、今後一切差別をしないことを会社として誓約し、態度で示すしかありません。良心に背く出版の代償は、断じて小さなものではありません。

新潮社の本を棚から撤去 和歌山の書店、新潮45に抗議

小規模の本屋さんのようですが、良い動きです。
言論は言論として認めるべきですが、差別は言論ではなくただの暴力です。書籍などを通して言論に携わろうとする者は、言論を悪用して使い捨てにし、被害者と言論の両方を同時に踏みにじる暴力にこそ敏感でなければなりません。
LGBTや○○人といった「属性」を理由として、そうした属性を持つ人々の尊厳を踏みにじり、魂を殺していい権利を持つ者などこの世にいません。差別を言論と位置付けることは、すなわち誰かが特定の属性の人々の尊厳を踏みにじり、生命や平穏な生活を脅かしても、それは自由であって別に構わないと主張しているのであり、それ自体が差別でしかないのです。
この店主の方は、おそらく真に本が好きな方なのでしょう。新潮社の創業者の言葉の意味を、書物の持つ力とその責任を、新潮社や講談社のヘイト本関係者、あるいは大手のヘイト書店の面々が寄ってたかっても到底理解できないようなことを、本を大切にしている小規模書店の店主は深く理解している、というのは極めて象徴的な図式ではあります。

2018-09-15 の記事 - 2018-09-15
ネットの「デマ」、名誉毀損で刑事告訴へ 翁長氏後継・玉城デニー氏

素晴らしいことです。
で、本土の立憲野党は?いつまで沖縄におんぶにだっこを続けるのですか?沖縄が貶められ、ターゲットにされ、それに抗おうとする人に対するデマが垂れ流されるのは、すべて本土の都合です。
本土の立憲野党が日ごろデマに厳しく対処しないから、沖縄でも悪質なデマが流されることになるのです。反撃がどれほど効果的かは、不当懲戒請求への反撃が示してくれている通りです。本土の立憲野党こそ、普段からデマに対して徹底的な法的措置で対抗しなければなりません。

台湾の従軍慰安婦像に蹴りを入れた藤井実彦とは何者なのか

海外に出向けば恥をさらす。日本の地位は貶める。二度と海外に立ち入るな、日本からも出ていけ、国賊が

日本のレイシスト連中がどこまで腐りきっているかをよく表している、徹底的にどうしようもない愚挙です。これにて台湾の心象は極限まで悪化し、慰安婦像の設置を妥当なものとみなしたことでしょう。かつての「The Fact」やスパムメール爆撃と同じことをまたしても繰り返したわけです。
この国賊と違い、像に対して何ら憎悪を持たない私としては設置が固定化しても全く構いませんが、像を通してその向こうにいる人間の尊厳を足蹴にしたこと、それによって日本の品位を極限まで棄損したことなどを決して許すことはできません。
ただ、これが恐ろしいのは、日本国内ではこの手の主張は全く珍しいものではなく(例えば作家の筒井氏は極めて下品な表現で像を貶めている)、それどころか生身の人間に対する攻撃すら平然となされていて、今回の件にしても日本国内での内輪受けを狙ったものであろうということ。今回は海外の目に触れ、国内と違ってまともな感覚であるがゆえに大問題になりましたが、これが海外の目に触れなかったり、国内で完結している場合には、レイシスト連中の拍手喝采で終わったことでしょう。
この国賊の行動は、単に日本国内に存在する願望を実際に形にしただけと言っても過言ではなく、この問題はそのまま日本の異常性を写す鏡となっているのです。

なお私は、慰安婦像は設置した方がよいという立場です。理由はこの国賊を見ての通り。日本が本当に過去と向き合うことができているのなら、レイシスト歴史修正主義政党が与党となり、歴史どころか少し前のことすら修正するレイシスト首相が大手を振るような異常事態にはなりませんし、地方政治でも東京の石原〜小池、大阪の維新といった恐ろしいことにはなりません。
今回の国賊及び国賊の同類が日本にはびこっている限り、こういったモニュメントの存在価値が増すことはあっても減ることはありませんし、こうした国賊の存在とその異常性を海外に知らしめる点でも大きな効果を上げています。単なる像でありながら、ここまで明瞭に深刻な社会問題の存在をあぶり出し、世界に問題提起ができるような像が他にあるでしょうか。
もし像が必要なくなる時が来るとすれば、それは日本人がこうした国賊及び国賊の同類と戦って勝利し、ヘイト政治家を政治の場から締め出し、自分たちの意思でレイシズムや歴史修正を否定し、歴史と向き合った時でしょう。

最新調査で判明、インターネットはこうして社会を「分断」する

安田浩一氏の記事を見たついでに読んだ記事ですが、何ですかこれは。
レイシストがタコツボの中に入ると極端な方向に走るのは確かで、それゆえに街角で「朝鮮人を皆殺しにしろ」だのと吐き散らしたり、女子中学生が「鶴橋大虐殺を起こしますよ」だのと背筋が凍るようなことを叫んだり、慰安婦像を足蹴にして国際問題になったりするわけですが、なぜここで「アンチ排外主義」までが極端化だの、果ては敵味方感情だの分断だのという奇妙な話が出てくるのか。
実はこの記事、1つ重要なピースが抜けています。怪談話などで、登場人物が無事では済まなかった場合の定番のツッコミとして「あなたは一体どうしてその話を知っているのか」というものがありますが、本件については「では、その両極の先鋭化を俯瞰しているらしいあなたは、一体どこに立って眺めているのか」と問うことができるでしょう。
というのは、いわゆる穏健派、中立や中庸を気取る意見こそが実際には極端であることは珍しくなく、この重要な点を抜きにして極端や分断を語ることはできないためです。

例えば、レイシストは街角で平然と「○○人を皆殺しにしろ」と主張しています。一方、反差別者は「そんなことは許されない」と主張しています。では、そのどちらの極でもない、すなわちここで言う「極端」には属さない「穏健」な立ち位置とはどこなのでしょうか。
単純に真ん中に立つとすれば、「○○人は半分殺せ」です。両方ともおかしいというのなら、つまり「○○人を皆殺しにするのはおかしいが、○○人を殺すのを許さないのもおかしい」ということです。無関心ならば「○○人が皆殺しにされようがされまいが、どちらでも構わない」。自分や近親者は殺されても構わないと主張することはないはずで、これはすなわち○○人の生命は無価値とみなしていることを意味します。では果たして「極端」でない人、「穏健」な人は一体どこに立つ気なのか。
実際のところ、この場合に極端でない意見、穏健な意見は反差別だけです。たとえ反差別に加わらない範囲でギリギリまで反差別側に寄り、最小値を用いて「○○人を○○人という理由で1人殺せ」と主張したとしても、これは十分に極端な意見です。「殺すな」が極端ではない唯一の解なのです。

むしろ日本社会は、いわゆる「穏健」、中間や中庸的な極端に走ることに対して最も無防備であり、それこそを一番に警戒すべきでしょう。差別や人権無視、不正のような明らかにおかしい主張や行為について、「正しい」「間違っている」「どちらともいえない」の中から「間違っている」を選べず、中庸を取ろうとする極端、と言えばイメージしやすいでしょうか。そしてそれは、理不尽な差別や人権無視による被害を受ける人々と、中庸に走ろうとして間違いを間違いとさえ言えない「穏健」派の間の地点で、社会が分断されることを意味します。
また、日本には中間を大人の対応とみなす珍妙な価値観があります。しかし、差別や人権無視のようなおかしい問題について、なんでもかんでも中立を気取ったり、両論併記をしようとすることを大人の対応とは言いません。それらをきっちり叱り、否定し、対処することか大人の対応です。
そして、この幽霊のようないわゆる穏健が、そのタコツボの中で意見を強化してしまうと時に恐ろしい結果を招きます。関東大震災時、差別デマに踊らされて動乱に加わった人の中には、いわゆる「普通の人」が大勢いました。当然、虐殺を防いだり被害者をかくまったりした人もまた存在し、勇気ある逸話も残されていますが、この状況でそうまでして虐殺に立ち向かった人々は「極端」であるわけです。
この記事のような角度から極端を語りたいのであれば、いわゆる穏健を極端の外の存在とするのではなく、それもまた極端の一形態であると位置づけることが最低限必要です。

2018-09-08 の記事 - 2018-09-08
安倍氏がDHCテレビの番組に出演したとのこと。
安倍氏はもともと筋金入りの差別主義者ではあるものの、その差別を麻生氏や在特会のように万人に対して大っぴらにはせず、ヘイトスピーチについて許されないなどともっともらしいことを口にはしつつ、知識がある人が見れば大仰天せざるを得ない差別的行動は取る、ということを繰り返してきました。
例えば保守速報シェア事件などは異常の上にも異常な行動でしたが、残念ながらスポンサーが降り始めるほど同サイトが一般に問題視されるようになったのは最近です。その他、The Facts第二弾に名を連ねるなどの異常行為には事欠きませんが、それらの意味が誰にでも分かるような適切な解説付きでメディアに取り上げられることはまずありません。その他、知識のある人には非常に悪質なレイシストとして有名であった杉田氏を事実上の当選保証で引き入れ、その時にも大仰天されたものでしたが、こちらは案の定大騒乱を引き起こしました。
そして今回、ヘイトデマの垂れ流しで有名で、沖縄及び辛氏個人を対象とした卑劣なヘイトデマ番組がBPOにも厳しく非難された、あのDHCの番組に安倍氏が出演したというのですから、いよいよ差別の深刻さ、支持層である差別主義者に向けた「内輪受け」の優先は極まってきたと見るべきでしょう。
メディアもいい加減、自民党がもはや単なる差別集団であることを明確に報じるべきです。保守速報もそうですが、ヘイトデマ番組の件についてDHCに正当化の余地は全くありません。「保毛尾田」問題の重大性さえも適切に評価することができないBPOですらそれは認めざるを得ず、ヘイトデマに対する厳しい指摘が大量になされることになったのです。
先の杉田発言では、まともな論調を取ろうとすると絶対に正当化のしようがないものであるためか、明確に否定する新聞社も複数ありました(一番しっかり否定していたのが子ども用コーナーというのが泣けてきますが)。同様に、沖縄ヘイトデマ及び在日の個人へのヘイトデマを垂れ流したヘイト企業・DHCの番組に出演する行為、完全なヘイトデマサイトである保守速報をシェアする行為、杉田氏がかねてから繰り返してきた差別と氏を引き入れた責任などすら、明確に否定的な立ち位置から解説し批判することができないのであれば、メディアに存在意義はありません

ツイッターCEO、アカウント停止判断に介入か

いかにもありそうな話です。
無論、私はこれが事実かどうかを知る立場にはありません。しかし、これが事実であるか否かなどTwitter外部の社会にとっては大した意味を持ちません。社会にとって重要なのは、Twitter社は徹底的に差別を放置し保護しているという一点だけです。

今回の台風や地震などの災害を受け、またしても、またしてもTwitterで災害便乗ヘイトが垂れ流されています。もうこれで何度目か数えるのもバカバカしいですが、災害のたびに問題になり、災害のたびに対策の必要性が明らかになっていて、一度たりともまともな対策を取らないでいるがために恒例行事となっているのです。
少なくとも、災害時ヘイトを垂れ流したアカウントは一発で利用権剥奪処分とし、平時には影響力のある差別アカウントだけでも全部同措置としておけば、Twitter上の差別は大きく減じられ、しかもそれほど人手もかかりません。災害のたびに危険極まりない状況となっていながら、その程度のことも絶対にしないのはなぜか。あえて差別を放置しているとしか考えようがありません。
おまけに日本法人代表はヘイトデマサイトのnetgeekの読者。国のリーダーが保守速報なら、大手SNSの日本法人のリーダーはnetgeekですか。結局そういうレベルの人々なのでしょうが、周囲にとっては大迷惑です。

Twitterは「ゴミがゴミを呼ぶ」と形容するにふさわしい存在です。何らかの公開コミュニティを作るにあたり、ゴミをまき散らす人間が一定数いるのは仕方ないにせよ、それを掃除したり注意したりすることもなく「ゴミを投棄するのも彼らの自由だ」とバカなことを言い出した結果、ゴミの山ばかりが膨れ上がり、まともな人々は次々と姿を消し、残ったのはゴミとゴミを捨てる輩だけ。
それだけならまだしも、そのゴミは猛烈な悪臭を周囲にまき散らし、廃棄物内の有毒物や病原体が大気や水源を汚染し始めました。すなわち、Twitterと直接関係ない人々までも生命や安全を脅かされる事態となっています。Twitter発のヘイトデマによっていつヘイトクライムが引き起こされても不思議ではない状況ですが、それによって被害を受けるのはTwitterを全く使っていない人かもしれないのです。

現状、自民党・安倍やトランプといった猛烈な退行現象はあるものの、全体として世界がまともな方向に進んでいくことは可能なはずです。そして、公正で差別が許容されず、マジョリティもマイノリティも皆が安全に暮らせる世界にTwitterの居場所はありません。差別もろとも墓場に叩き込むのが一番でしょう。

2018-09-01 の記事 - 2018-09-01
ブームを起こし7か月で消えた「希望の党」とは一体なんだったのか

「おふざけもほどほどにしろ」の一言。自民党に負けず劣らず腐り切った議員の巣窟では、先の衆院選で大失敗したのも当然の結果というものです。

>昨年9月、希望の党の結党会見が華々しく行われ、当時の民進党の前原代表が希望の党への合流を決めた時、民進党系議員は刻々と変化する状況に戸惑いつつも「ある意味でワクワクしていた」と今の国民民主党幹部は振り返る。

それは楽しそうでよろしいことで。娯楽施設から娯楽体験の提供を受けて対価を支払うように、夢を見させてもらって議席や支持率を支払ったわけですから、とても釣り合いの取れた取引ではないでしょうか。最後に良い夢を見たのですから、もう戻ってこなくて結構。

では旧民進党を応援していた市民はというと、少なくとも反差別や立憲主義・民主主義の観点から応援していた人の中では、この騒動に怒ったり焦ったりあきれたりする人はいても、ワクワクしていた人など1人として見ませんでした。所属議員連中の「ワクワク」などという異常なまでの感覚の乖離を考えれば、民進党を事実上引き継いでおきながら、ないないづくしの立憲民主党にすら劣る大惨敗となったのも当然というものでしょう。

小池氏といえば、在特会関係団体の集会で講演をするほどの筋金入りのレイシストです。おまけに石原氏ですらやっていた関東大震災朝鮮人虐殺への追悼文送付をやめ、今年もまた送られないことになりました。
差別主義者の親玉である自民党・安倍政権と、在特系集会の講演に立つほどのレイシストである小池氏、この両者によって国会が牛耳られようものなら、この国はマイノリティが到底平穏に暮らせる状態ではなくなります
前原氏は「みんながみんなのために」を標語としていましたが、何のことはない、「みんな」からマイノリティは除外されていたのです。本来、政治とは立場の弱い人々をすくい上げることに意義があるはずで、そのための政治による再分配や福祉なのですが、前原氏の「みんな」には弱い人など最初から含まれていなかったのです。
これは旧民進党のうち小池ヘイト党から離反しなかった他の議員も同じで、このままでは差別政党が議席のほとんどを占有し、被差別者ら立場の弱い人々は地獄の釜に投げ込まれる、などと焦るどころか、「ワクワク」までする始末。議員としてという以前に、人として何をなすべきかも分からなかったようです。

とはいうものの、人間誰しも間違いはあるもの。在特系集会の講演登壇者についていくことが「人間には間違いはある」で済まされるかというと相当厳しいのですが、この失敗で性根を入れ替えて人として恥じない行動をするというなら、それはそれで悪いことではないでしょう。
ところが、

>選挙を終え、53人となった希望の党の議員はこぞって失敗の理由づけを始めた。
>小池知事の「排除」発言、結党までの準備不足、前原元民進党代表の判断ミス…などなど。


>「こんなことなら排除されて立憲民主党にいったほうがよかった」

>「なぜこんなことになってしまったのか」「自分は巻き込まれてしまった」

これですから。
自分たちが「主体的に」立場の弱い人々を地獄に投げ込もうとしていた自覚など皆無。あの時点でも皆無であるのみならず、冷静に分析が可能となった今に至ってすらほとんど皆無でしょう。当然、立憲民主党の方が善戦した理由として、立場の弱い人々が地獄に投げ込まれる寸前であったのを、市民と共産党ら野党と民進内のまともな人がとにかく団結して何とか止めに入ったから、といったようなことを全く踏まえていないのは明白です。ただ単に、隣の船は沈まなかったからそちらに乗りたかった、というだけ。
差別政党で国会を埋め尽くそうとするたくらみなど、失敗してもらわなければ困ります。それ以外の「理由づけ」を試みる連中は、最初から立場の弱い人々のことなど全く考えてもいないのです。人間としての道理を少しでもわきまえているなら、今からでも地獄に叩き落そうとした被差別者らに謝罪しに行ってはいかがか。
こんな連中がどこに行こうが、国民民主党なるものを立ち上げようが、そんなものがまともな存在となるわけがありません。

国民民主党・玉木代表「高齢者就労のためには最低賃金以下でも働けるような労働法制の特例も必要」

その行き着いた先が、玉木氏による「コドモノミクス」や高齢者最低賃金適用除外といった異様な政策です。どこまで物が分かっていなければこういうことが言えるのでしょうか。
高齢者の最低賃金以下の労働は、高齢者に対する搾取であるのみならず、高齢者以外の人々の賃金低下や雇用縮小をもたらし、誰にとっても災厄にしかなりません。最低賃金水準の低さは散々指摘されており、底上げを行うことが必要とされているのに、なぜ未だにこういうことを平然と言えるのか。
しかも恐ろしいことに、「逆転現象を防ぐため、生活保護費との整合性も考えていきたい」とまで言及している始末。具体的に何をしたいのかは不明ですが、最低賃金以下の労働を作って人々を追い込んでおいて、そこからはじき出された人のセーフティネットまで奪い取るとすれば、全方位的に完璧な困窮拡大策です。
また、これと「コドモノミクス」を同時に主張するのも極めて不可解です。個人的には金銭的負担を緩和する直接給付自体を否定はしませんが、低すぎて結婚だの家庭だのどころではない賃金、職場の理解不足や保育所不足どころか大学入試の時点でさえ女性を切り捨てるほどの差別的分業思想かつブラック社会、ベビーカーを引いたり子どもを連れた女性に対する嫌がらせ(男性の場合はあまり嫌がらせを受けない)、重すぎる学費負担、増していく税負担、削られていく福祉に対する不安(本当に財源がないならまだしも、実際には無意味なバラマキをし、珍妙な兵器を買いまくり、お友達には国の財産を提供している)、その他これでもかというほど問題がある状況です。
ここに高齢者最低賃金適用除外が入れば、賃金や労働環境、雇用状況はさらに悪化するでしょう。その上で「子ども3人で1000万円」などと工業製品の生産報奨金のような政策を打ち出したとして、それを現実的な解だとみなす人がどこにいるのか。
もともと金銭的にかなり余裕がある人が、ついでとばかりに1000万円を獲得していくことはあり得るでしょう。一方、現状の危機に加えてさらに高齢者最賃除外制度の猛追撃を浴びせておいて、その上で1000万円で釣るという手法で無理やり出生率を上げようとしても、草花にまず強力除草剤を浴びせてからジャブジャブ水を撒くようなものですし、仮に思惑通りにいくケースがいくらかあったとしても、格差の世代連鎖がさらに起きやすくなるのは見えています。

結局、政治家が最も見なければならないものを完全に無視しているから、小池ヘイト党騒動から現状の国民民主党の有様まで、ことごとく何か異様にズレたことが起きるわけです。被差別者ら立場の弱い人々を散々踏みつけて好き放題に夢を見たのですから、もうこれで十分でしょう。

2018-08-25 の記事 - 2018-08-25
東京五輪メダル「銀」まだ足りない、小中学校でも回収へ

もう末期状態。資金はあるのに市民に金属を拠出させ、「ボランティア」とやらを募り、市民に何らかの負担をさせたり金を渡さないためならいくらでも金を使う。狂気というものを見せつけられている気分です。
こと安倍内閣になってから言葉が次々と破壊されていますが、言葉というものの本質に立ち返るなら、東京オリンピックに関するボランティアはすべて「タダ働き」または「無賃労働」と言い換えるべきでしょう。
例えば災害が発生した場合、被災者が自力で問題を何とかしようとしても人手が足りませんし、被災者の多くは人を動かすほどの潤沢な資金を持っているわけでもありません。したがって、報酬によらずにそれを手助けするのは「ボランティア」と呼んで間違いないでしょう。
しかし、オリンピックの場合は実にバカげたことに資金をジャブジャブ使い、恐ろしい規模の無駄遣い五輪になっているのです。労働力に金を出すのは容易なのにタダ働きさせようとしているのですから、これは「無賃労働」と正しく表記すべきです。
金の無駄遣いであるばかりか、労働力をタダとみなすなどの異常思想や狂った精神性を浸透させ、有形のみならず無形の部分でも甚大な被害をもたらすオリンピックなど、当然ながら直ちに返上すべきです。

「申し訳ないがまずは共産党は除いて」国民民主・玉木氏

私は、在特系講演会に出るほどの稀代のレイシスト・小池氏に党を売り渡し、それにより二大ヘイ党制を作ってマイノリティの平穏な生活を破壊しようとした小池ヘイト党騒動を絶対に許すことができません。しかも、その観点から反省する様子もない。泥水を飲もうが何しようが、国民民主党には入れたくないと言わざるを得ません。
支持率から言っても共産党の方が上。一方、小池ヘイト党騒動の成れの果てで、あの前原氏が所属し、肝心なところで裏切るなど、共闘支持者忌避剤としての効果が抜群の国民民主党。共闘の効率最大化のために、国民民主党を除いて戦略を立てた上、国民民主党には擁立撤回を判断いただけば結構です。

アジア大会:「買春、浮ついた気持ちで」バスケ4選手謝罪

色々な意味で「気持ち悪い」の一言。

あえてこのような言い方をしますが、彼らは単なる大会出場選手です。たかだかそのような存在に勝手に日の丸を背負うなどと言われても困りますし、日の丸とか何とか妙な自意識が薄気味悪い。何が悪いのか理解しているのでしょうか。
確かに本件は海外でも報じられており、日本の恥です。そういう意味では「日の丸」を汚していると考えても間違いとはいえないかもしれません。しかし、これは日本文化お得意の「叱られるからやめなさい」論法につながるもので、全く同意することはできません。
「叱られるからやめなさい」論法において、なぜそれをしてはいけないのか。叱られるからです。では、それをしてしまった結果としてどのような不利益が起こるのか。叱られます。このような循環論法じみた無意味なものに何の意味があるというのでしょうか。叱られるからダメならば、見つからないようにすればやっていいのでしょうか。「よくないことだからやめなさい」が正しいのであって、なぜよくないのか正しく理解されなければならないのです。そして当然、たとえ誰かに叱られることであろうとも、それが公正性の観点からして正当または不当性のない行為であるならば(例:公益通報)、やめる必要はありません。
本件も同様で、「日の丸を背負っているから」やってはいけないのではありません。「安易な買春は」やってはならないのです。もし「日の丸を背負っているのに」やってしまったというなら、それはつまり日の丸を背負ってさえいなければ、あるいはバレなければやっていいことを意味します。「日本の恥だからダメとされているのに、それをしたから日本の恥になった」のではなく、「よくないことをしたから結果的に日本の恥」であるだけのこと。
(なお、私はセックスワーカー自体が差別されたり排除されることはあってはならないと考えますので、あらゆる売買春をすべて問題とはみなしません。十分な選択肢の中から自由意志でセックスワークを選択し、いつでも他の選択肢を選択できる中でそれを継続し、人権や健康が保証される限りにおいて、それは本人の自由だろうと考えます。
今回の場合、日本代表選手が日本よりもまだ経済力が高くない途上国で、セックスワーカーの権利などといった点に無頓着な買春を行い、経済格差に基づく一種の性的搾取を平然と行った点が大いに問題であると言わざるを得ず、このような人権的・搾取的問題をはらんだ買春について、ここでは便宜上「安易な買春」と表記します)

彼ら問題となった選手に必要なのは、日の丸がどうたらではありません。日の丸を汚しているというなら、彼らより安倍・麻生・杉田水脈・山口敬之といった連中や在特会などのレイシストの方がよっぽど悪質で被害も上です。先日の人種差別撤廃委員会での醜態などは、まさに日本の恥と呼ぶにふさわしいものですが、どういうわけか選手ほどに叩かれてはおらず、日の丸がどうのこうのという理由付けは極めて不可解で意味不明なものであることが分かります。そういうよく分からない理由で問題の選手が反省し、また彼らを処分したり責めたりするのは、もっと異常で悪質な連中をどうにかしてからでよろしい
それよりも彼らに必要なのは、自分が何をしたのか、なぜそれがいけないのかを十分に理解させることです。間違っても「背負っていた日の丸」を汚したから反省せねばならないのではありません。そして、どうやら彼ら以外の少なからぬ日本人も、なぜそれがいけないのかを学ばなければならない状況にあるようです。

2018-08-18 の記事 - 2018-08-18
自称プラントハンターによる「星の王子さま バオバブの苗木」、大炎上により販売中止に

この件。プラントハンターを名乗る炎上芸人による「法には触れない」を悪用したモラルハザードが可視化された例でしたが、結局取り扱いは取りやめとなったようです。

通常、法律は社会の何もかもを取り締まるようにはできていません。それをやってしまうと自由が損なわれますし、社会にとって良いことはありません。ただ、「法にはいちいち書いていないが、すべきでないこと」は当然ながら存在します。
例えば、とあるファンドが法の抜け道をついて株を買い進め、グリーンメールを仕掛ける。ブログや動画でヘイトデマを垂れ流し、それを商売とする。ある出版社が著者に白人を起用して「ハク」をつけた上で、ヘイト本を売りさばく。法的に問題ないと称して男性の集団が女性専用車両に乗り込む嫌がらせをし、時には注意してきた女性を晒し上げ、それを動画にして視聴数を稼ぐ。著作権が切れた有名な物語を捻じ曲げて用い、炎上商法によって注目を集め、ただの苗木に物語代を乗せて高く売る。いずれも「(直ちには)法には触れない」案件です。
このようなモラルハザードが平然と横行すれば、それを法律や条例、あるいは自治体や企業・共同体の規則などで規制する必要が出てくる場合もあります。本来であれば良識で避けることができるのに、一部の不届き者がふざけたことをやるがためにシステム的に縛らざるを得なくなれば、それは社会にとっての損失です。といっても、日本では政府が完全にモラルハザードを起こしているので、それ以前の問題かもしれませんが。
したがって、法的に問題はなくとも、良識に反していたり、他人に対して不当な苦痛を与えるなど、公正性に反する場合には、市民の言論活動などによって止めることが必要になる場合もあります。分かりやすい成功例としては、レイシストへのカウンターやヘイト動画通報などを挙げることができるでしょう。いずれも根絶には至らずとも、その規模を大きく減じることには成功しています。

では今回のような炎上商法が行われた場合、どのように対抗するのが効果的なのか。私が知る限り、最も良いのは徹底的に炎上させて燃やし尽くしてしまうことです。
長谷川豊氏は「透析患者は殺せ」で炎上を仕掛けましたが、燃やし尽くされてレギュラー番組をすべて失い、しかも維新から出馬するも強い反発を呼ぶばかりで、結局落選。杉田水脈氏は安倍政権の本音担当として差別を垂れ流し、その異常思想によって名を売りにいった結果、徹底的に燃やされて自民党ですら形ばかりながら「指導」をすることになった上、「生産性」をめぐる余波は今なお続いています。
このプラントハンターを自称する炎上芸人はかつてクリスマスツリーでやらかしましたが、今回の件でももともと炎上必至のやり方に加え、以前の大炎上で作られたコークスに今回の炎が引火して高温化した側面もあり、徹底的に燃やされた結果として販売は中止。氏は「危険物件」として広く認知されるに至ったことでしょう。

NEWSの窓:メディア 差別と闘う 「どっちもどっち」は無し

おっしゃる通り。ただ、これを書いた人は分かっておられるとしても、分かっていない人間がこの新聞社内も含めてゴロゴロいるようですが

どっちもどっち論。マスメディア上で多く見られるのは、無理やりな両論併記であったり、「とされる」「とも取られかねない」といった「そう取る奴が悪い」と言わんばかりの表現であったり。また、どっちもどっち論を誘発する不正確な表現として「ヘイトスピーチ(憎悪表現)」も散々使用されてきました。これらがどれほど著しく公正性を毀損してきたことでしょうか。
例えば、最近でも杉田氏のLGBTヘイト、東京医科大学の女性差別など、日本で差別を見ない日はありませんが、これらはいずれもただの差別です。「差別と取られかねない」などではなく「差別」です。理由をつけようが何しようが、単なる差別です。そして、杉田発言についてしっかり許されないと明記しているのが、こちらは読売新聞の子ども用コーナーという笑えなさ。毎日といい読売といい、どうして子どもコーナーでは正しい説明が書けるのに、大人が読む部分では全く話にならないのか。
子どもに「それなら、許されない発言をしているような人や政党について、なぜメディアはまともに批判し戦おうとしないのか」と問われて、答えられるのでしょうか。

ここに「○○人を皆殺しにしろ」と主張する者がいます。そして、それに対して「そんなの許されるか」と反対する者がいます。これがどっちもどっちであるとしたら、ではその中間点はどこでしょうか。両論併記をするとしたら、その落としどころはどこでしょうか。「○○人を皆殺し」と「それは許されない」の間からどの点を選んだとしても、100%留保なしの「許されない」を選ばない限り、「○○人をある程度なら殺していい」ということにならざるを得ません
差別には明確な力関係の差が存在します。力関係の差がなければ差別にはなり得ず、差別問題を考える上では常にこれを念頭に置かなければなりません。
力関係が違う以上、差別の構図を放っておけば被差別者が一方的に蹂躙されます。ひ弱な子どもと老人が屈強なヤクザの大軍に絡まれ、必死で抵抗している、という場面があるとして、これを「ケンカはどっちもどっちだ」と放置しておけば弱い側が容易に蹂躙されるだけです。おまけに、この場合のヤクザとはすなわちマジョリティの力を背景にした存在であるわけですから、自分がマジョリティである限りは自分もヤクザに力を貸している側となります。
つまり、「止める」以外の選択肢はすべてヤクザに味方することと同義です。自分も差別に加わるか、どっちもどっち論などで中立を気取るかの違いは、自分もヤクザに手を貸して蹂躙を手伝うか、自分は手を下さずヤクザに汚れ仕事をやってもらうか、ただそれだけの差でしかありません。
さらに恐ろしいことに、マジョリティの一部はヤクザに襲われている弱い立場の人々が涙を流して耐えている間は「おお、ひどい話だ。かわいそうに」などと言ったりするくせに、彼らがもう殴られたくないからと抵抗したり身を守ろうとしたり、社会に苦境を訴えたりし始めた途端に「逆らうのか?生意気だ!でしゃばるな!」などと言い出したりします。要するに、被差別者が従順である限りは二級市民扱いくらいならしてやる、という極めて差別的な態度を取るわけです。
しかも現状で運よく特権階級側につくことができた名誉一級市民の被差別者が差別側に同調する、という地獄絵図もしばしば繰り広げられます。

こうしたものに対して、メディアは「NO」と言う責任があります。差別は差別であると述べ、差別者の攻撃と被差別者の抵抗を「どっちもどっち」にせず、不公正な両論併記は行わず、また従順であることを条件とした二級市民認定なども正しく差別と断じなければなりません。
しかし実際はどうでしょうか。立場の弱い人々を権力などの巨大な力から守るため、それに匹敵するほど大きな力を与えられてきたメディアが、権力や社会の差別と手を組み、強大な力を用いて弱い立場の人々を蹂躙する場面を、一体何度見せられたことでしょうか。新聞が強い者の味方をして弱い者を叩き、テレビで被差別者を面白おかしく蹂躙し、大手出版社さえも売れるからとヘイト本を出す絶望的な光景を、今までどれほど目にしてきたことでしょうか。それがマジョリティ側の人間から見ても最低劣悪な光景であるならば、マイノリティにとってはどれほどの恐怖や絶望でしょうか。
子どもコーナーに書かれる、すなわち子どもでも十分理解できるようなことを、大人はなぜできないのか。このような状況は恥も恥、子どもにも笑われてバカにされるほどの大恥だと考えるべきでしょう。

2018-08-11 の記事 - 2018-08-11
森氏、サマータイム再度要望 首相「内閣としても検討」

バカじゃないの?

捏造・改ざん・もみ消し・ヘイト、何でもありのこの異常な政党・内閣はいつもこれです。しかもオリンピック自体が老人の道楽同然に招致が開始された大義のないもので、こちらもまたロゴから競技場から何もかも大騒乱。現代日本におけるこの2つの巨大ゴミが合わされば、大惨事になることなど分かったようなもの
さすがに実際には導入されないと信じたいところですが、この内閣は国民を苦しめることであれば何をやってもおかしくありませんし、たとえ回避されてもこんなものが検討されることからしてどうかしています。

なお、本件については自民党・安倍内閣支持者のうち、これが実現されればあおりを食う人々の一部も真っ青になっている模様。今まで他者を踏みにじる行為、異常で全く道理に合わないやり方を平然と支持しておいて、自分が被弾すると分かった途端に大騒ぎですか。散々支持していながら、LGBTヘイトの直撃を食ったら騒ぎ出した勝間氏でもあるまいに、恥という概念がないのか(無論、今までの行いを反省して転向する人がいるならそれは歓迎です。まずは踏みにじってきた人々への真摯な謝罪と、自民や在特周辺やその他ヘイト勢力への明確な不支持表明、そして贖罪の開始は最低条件ですが)。
今まで散々やってきたように、どんな滅茶苦茶な政策でも何の疑問も持たずに支持でもしていればよろしい。他人の首にかけた縄は平気で引っ張ってきたのですから、自分の首に縄が巻かれた時にも同じようにすればよろしい。
自分が支持してきた内閣の異常行為によって大災厄がもたらされたとしても、まさか内閣の異常行為に反対してきた「反日」どもの手を借りたりなどしないでしょう。親愛なる内閣のために自分らだけでデスマーチでもなんでもして対処すればいい。それで力尽きたら、終戦の日コスプレ大会でおなじみの某神社にでも祭ってもらってはいかがか。
本来、サマータイムに反対する人は誰でも「味方」のはずですが、捏造・改ざん・もみ消し・差別などの不公正の山に対して怒るどころか支持していた人間が「味方」になったところで何の役にも立ちません。どうせ自分は被弾しないが被差別者・困窮者などが大いに苦しむ滅茶苦茶な案が出てきたら、そちらは大喜びで支持することでしょう。そういう輩などいるだけ邪魔ですし、手を組めば余計悪い方に進むだけです。

東京五輪が待ち遠しくない

この状況下でよくぞこのような見解を書いたものです。そして、書いてあることはいずれもごもっとも。

ただ私としては、やはり「かかわってくるな」ではなく「返上しろ」と言いたいところ。
自分という視点で考える場合、確かにオリンピックが自分に一切かかわってこなければそれで十分です(実際には不可能でしょうが)。私の知らないどこかで勝手にやって、私に一切迷惑をかけず、勝手に終わって勝手に後始末をしてくれればいい。報道も、オリンピックが好きな人にはスポーツチャンネルやスポーツ紙を見てもらい、一般のメディアでは政治などの問題を扱う時間を一切減らさない。競技は国ではなく選手の競争としてのみ扱い、国としての闘争心を煽るような報道はしない。そうである限り、私個人はそれで構いません。
ただし、社会的な観点から見るとそうはいきません。このオリンピックには大義も公正性もなく、よって返上するのが社会のために必要であるからです。
国民の支持をろくに得られない状況で老人の道楽同然に立候補し、招致には疑惑が付きまとい、アンダーコントロールなるデマまで吐き、安価な五輪と嘘を言い、ロゴで大モメ、競技場で大モメ、共謀罪など悪法成立に活用、被災地を利用して招致しておきながら被災地からリソースを奪うことになり、卑劣にも学徒動員までもくろみ、ボランティア駆り出しのために休暇をずらすやら大迷惑の連続で、しかもそのボランティアとやらは単なる無賃労働、そして今度はサマータイムだの何だの。そこに大義は何一つありませんし、自己満足連中と利権連中のバカげた机上の空論によって一般の人々が苦しむだけです。
そしてオリンピックが終われば、そこで生み出された多くの財政負担と、散々無理が通されたことによる制度及びモラルの崩壊により、焼け野原同然の未来が待っています。

自分のことだけでよければ、「かかわってくるな」は最も容易な答えです。しかし、社会の観点から考えるならば、オリンピックは返上するしかありません。
開催されてしまった場合の大災厄に比べれば大したことはない違約金でも何でも払い、オリンピック予算は地震・豪雨・台風の被災地に振り向けたり、人道的な避難所設営用の設備を整えたりすればいい。
国際社会に対しては恥だとしても、オリンピック招致決定からここまでに積み重ねてきた恥、そしてこれから積み重ねる恥を考えれば、こちらも大したことはありません。そもそも、捏造・改ざん・もみ消し・差別・歴史修正内閣が国を動かし、ヘイトデモやヘイト議員が横行し、土俵はおろか入試ですら堂々と女性差別がなされている現状を超えるほどの恥はないでしょう。
後は「もう始めたことだから」「今さら文句を言うな」と言い続けて焼け野原まで行くか、途中で踏みとどまるか、ただそれだけです。